よく頑張ってますねと言われたい夜に
依頼はいつも突然に
その日も事務所には、昭和の時代から時間が止まったような蛍光灯の光がしんと灯っていた。16時37分。そろそろ書類整理でもするかと立ち上がろうとしたその時、電話が鳴った。
薄暗い事務所に響いた電話
「あの、、、登記のことでちょっと相談があって、、、」
声の主は若い女性。小さく震えていた。背景にはテレビの音、たぶんサザエさんのエンディングが流れている時間だ。
依頼人の声にはどこか怯えがあった
「実は、父が亡くなって、相続の手続きをお願いしたいんです」
声の端々に、言葉では語られない“何か”がにじんでいた。司法書士歴20年、こういうときの「嫌な予感」はけっこう当たる。
書類では説明できない違和感
登記簿謄本の記載、相続関係説明図、遺言書。すべては整っているように見えた。だが、何かが足りない。それが何なのか、まだ形にならない。
褒められた記憶をたぐり寄せる
僕の人生で「よく頑張ってるね」と言われた記憶は少ない。
むしろ「地味だね」とか「真面目すぎ」とか、そんなセリフばかりが脳内にアーカイブされている。
野球部時代の監督の声
「シンドウ、声が小さい!もっと腹から出せ!」
うん、頑張っていた。でも、誰もそれを褒めはしなかった。ただ毎日怒鳴られて、砂をかんだような気持ちで白球を追っていた。
サトウさんのぼやきに救われる
「まあまあ、先生、今日もよく働いてますよ」
事務所でひとりごとのように呟く僕に、隣でタイピングを止めたサトウさんがぼそり。
その一言に、救われる瞬間がたしかにあった。
独りの夜にこみあげる孤独とやるせなさ
暖房の切れた事務所は寒い。コートを羽織ったまま、僕は相続人の情報を見直す。独身、子なし、戸籍に載らない養子縁組……妙なものが見えてくる。
書類に潜むもうひとつの顔
それは遺言書に仕掛けられた小さな罠だった。
一見、法的にも完璧に見えるその文面。しかし、その筆跡と日付に、思わぬ矛盾が隠れていた。
遺言書の文言が持つ裏の意味
「すべての財産を娘○○に相続させる」
だが、娘の本当の名前は別にあった。記載された名前は、戸籍に存在しない“通称”だったのだ。
間違えたふりをする文字の配置
筆跡鑑定の依頼を出すと、結果は「本人のものではない可能性が高い」。
そして、書類の一部には明らかに事務所用プリンタで印刷された痕跡が……。
やれやれこれも仕事のうちか
「サトウさん、ちょっとこれ、警察にも話通しておこうか」
「まーた変なのに巻き込まれましたね、先生」
僕はコーヒーをすすりながら呟いた。
やれやれ、、、いつもこうだ。
証言と沈黙のあいだ
近所の住人の証言によると、亡くなった男性には昔から“内縁の妻”がいたという。しかもその女性の苗字が、今回の依頼人と一致する。
隣人が語った意外な一言
「あの娘さん?ずっと一緒にいたけどね、籍は入れてなかったはずだよ」
戸籍上の娘ではなかった。では、なぜ遺言に名前が?
亡くなったはずの相続人
実は、真の相続人がもう一人いた。戸籍を追うと、過去に行方不明となった実子の名前が。
そして驚くことに、つい最近住民票が再登録されていた。
サトウさんの記憶力が光るとき
「先生、これ、以前別件で見た名前に似てません?」
彼女の頭脳はパラリーガル界の名探偵コナン。
ピースがつながり、真実は一気に浮かび上がった。
解決の糸口と晩ごはんのメニュー
遺産の不正相続未遂。内縁の妻が偽造した遺言書。そして、失踪していた実子の帰還。
すべての書類をまとめ、僕らは法務局へと走った。
真実は登記簿の片隅に
登記申請書に実子の名前が記載され、ようやく正当な権利が守られた瞬間。
法というより“人の筋”を通した感覚が、少しだけ僕を満たしてくれた。
よく頑張ってますねと言ったのは
「本当に、ありがとうございます。先生、よく頑張ってくださって」
実子にそう言われたとき、なぜだか涙腺が妙に緩んだ。
こんな一言に弱いのは、きっと疲れてるせいだ。
そして僕はまた事務所に戻る
商店街の惣菜屋でメンチカツを買い、夜の事務所に戻る。サトウさんはもう帰っていた。
蛍光灯の明かりの下、静かにメンチをかじる。
明日もまた、誰にも気づかれない“よく頑張ってる”が続く。