登記相談室に現れた女
朝からどんよりとした曇り空。そんな天気に比例するように、俺の気分も晴れなかった。サトウさんの「今日も一日がんばってくださいね(棒読み)」の一言が唯一の挨拶だった。
そこに彼女は現れた。黒髪のロング、控えめなスーツ姿。目元だけが妙に鋭く、何かを確かめに来たような眼差しだった。開口一番、彼女はこう言った。「この婚姻記録、おかしいと思いませんか?」
そう言って差し出された戸籍謄本を見た瞬間、俺は眠気を忘れた。
妙に落ち着いた依頼人
彼女の名は田村綾子。年齢は三十五、独身。戸籍上は三年前にある男と結婚していたことになっている。だが、彼女自身にその記憶はない。「戸籍上の夫とは一度も会ったことがありません」
不安げにそう語る表情とは裏腹に、言葉は正確で冷静だった。詐欺か、戸籍上の何らかの操作か。どちらにせよ、これは簡単な話ではない。俺はサトウさんに目配せした。
「調べる価値はありそうですね」と彼女は端的に言った。まるで名探偵コナンの阿笠博士みたいなタイミングだった。
戸籍に刻まれた知らない婚姻
戸籍謄本を確認する。婚姻の記録、届け出日、受理官署、どれも正式なものだ。相手の男は「吉沢陽介」。聞き覚えのない名前だった。
だが、奇妙なことが一つあった。婚姻届の証人欄には、彼女の祖父母の名前が記載されていた。すでに他界しているはずの人物が、三年前に証人欄に署名した?
「ゴースト筆跡、、、ね。まさかね」俺は独り言を漏らした。
事務員サトウさんの冷静な分析
「戸籍謄本を発行した役場、福島県喜多方市、、、ですね」サトウさんが淡々と端末を操作しながら言う。その視線は冷たいが、指の動きは熱い。
彼女はすでにその役場の発行履歴、受付担当者、戸籍データベースの改訂履歴を洗っていた。「やはりおかしいです。訂正履歴がありません。改ざんされた形跡すら消されています」
それはつまり、戸籍が“自然な形”で偽装されているということだった。
提出された戸籍謄本の矛盾
再確認して気づいた。婚姻届の受理番号が、当該年度の番号と一致していない。架空の番号が振られていた。さらに証人欄の筆跡、どこかで見たことがあるような、、、
俺は事務所の奥から過去の遺産を引っ張り出す。昔処理した相続の書類、その中の署名欄。「これだ、、、!」
そこにあった祖父の筆跡と、婚姻届の証人欄が一致した。だが、それは彼が亡くなる五年前の書類だった。
古い本籍地での手がかり
依頼人と一緒に喜多方市役所を訪れる。登記の出張はめんどくさいが、今回は事情が違う。俺は元野球部、こう見えて肩は強い。サトウさんは同行しない。代わりにUSBと手書きメモをくれた。
「役所の窓口にはこの手順で」冷たくも的確なメモに、少しだけ温もりを感じた気がした。やれやれ、、、俺は単なる便利屋か。
現地の職員は一様に困惑していた。「これは、、、おかしいですね」そうだろうとも。職員の声に、俺は口角を少しだけ上げた。
記録と記憶の齟齬
さらに調べていくと、奇妙な事実が判明した。吉沢陽介という男、婚姻届けを出した直後に失踪していた。住民票も職歴も、ぱったりと途切れている。
さらに驚くべきことに、彼の本籍地の住所には現在、老人ホームが建っていた。住んでいた形跡すらなかったのだ。
「吉沢陽介、、、存在しない人間かもしれません」俺はそうつぶやいた。
元野球部のうっかりが冴える瞬間
ふとした瞬間、サトウさんが言っていた「使用済みの戸籍筆跡」という言葉が頭に浮かんだ。俺は過去の婚姻届の控えを再度見返す。署名部分だけを重ねてみると、なんと別の人物の筆跡と一致した。
「使いまわしか、、、」思わず声が漏れる。うっかりしがちな俺でも、たまにはピッチャー返しの球を打ち返すときもある。
どうやら誰かが“すでに存在する筆跡”を組み合わせて偽造していたらしい。
筆跡と消された書き換え跡
さらに筆跡鑑定の専門家に依頼し、デジタル照合をかけてもらった結果、証人欄の筆跡はかつて別の遺言書に使われたものと一致した。
つまり、複数の過去書類から切り貼りされた“寄せ集め婚姻届”だったわけだ。まるで探偵漫画に出てくるトリックのようだ。
でも現実は、書類の一枚で人の人生が簡単に揺らぐ、そんな世界なのだ。
すべてはある目的のために
なぜそんなことをしたのか?理由は意外なほど単純だった。依頼人の名義を使って、土地を買い占めるため。婚姻を偽装し、配偶者の同意という形で不動産の売買を行う。
名義貸しとは異なる“合法に見える偽装”。そのための婚姻記録だった。実際、吉沢陽介名義で複数の土地が登記されていた。
そのうちの一つは、地元再開発の中心地だった。背後に組織の影がちらつく。
戸籍を操作した黒幕の正体
調べを進めるうちに、地元役場の元職員が浮かび上がった。数年前に退職したが、内部システムの一部にアクセスしていた痕跡がある。
さらに、その人物は依頼人の叔父であり、長年家族と疎遠になっていたことが分かった。つまり、身内を“使いやすい道具”としか見ていなかったのだ。
彼の身柄は、現在警察の監視下にあるという。
結末と小さな静かな別れ
すべてが明らかになったあと、田村さんは深く頭を下げて帰っていった。「本当にありがとうございました。でも、、、これで私は、家族と絶縁できます」
その背中に、何とも言えない寂しさが滲んでいた。家族の絆とは、そんなにも脆く、同時に重いものなのだろう。
俺はそっと、サトウさんの机の上にお菓子を置いたが、帰ってきたのは付箋一枚。「甘いものは控えてください」
司法書士という立場の限界
法の手続きで人を救えるのか。いつも考える問いだ。今回もまた、完全な解決とは言えなかったかもしれない。
けれど、ほんの少しでも誰かの肩の荷を下ろせたのなら、それでいいのかもしれない。
やれやれ、、、もう少しだけ、この仕事を続けてみるか。
そして、日常へと戻る
翌朝、またいつもの事務所に、いつもの時間が流れる。サトウさんの塩対応と、俺の愚痴と、お茶の渋さ。
だが今日だけは、少し背筋を伸ばして仕事に取りかかっていた。ほんの少しだけ。
戸籍の記録は嘘をつかない、ただし書いた人間が誠実である限りにおいて。