証人欄に残された違和感
午前9時。事務所に届いた一通の封筒には、数日前に亡くなった依頼人・渡辺茂雄氏名義の登記申請書が入っていた。宛先は間違いなく俺の事務所。しかし、その中の書類を見て、俺は一瞬眉をひそめた。証人欄だけが、きれいに空白だったのだ。
登記申請に必要な署名欄が抜けているのは、単なるうっかりでは済まされない。誰かが意図的に空けたのか、それとも証人自体が存在しなかったのか。直感的に、これはただの手続きミスではないと感じた。
俺の背筋に、久々の推理の火が灯った瞬間だった。
亡き依頼人の申請書
渡辺氏は町内では有名な地主で、最後まで家族と距離を置いて暮らしていた人物だった。彼の登記関連書類を扱うのはこれが二度目だが、今回の提出タイミングには違和感がある。何より、亡くなった翌日に申請書が届くなんて早すぎる。
仮に本人の生前作成ならば、証人欄が空白のまま出てくることはない。これは誰かが死後に書類を操作し、あわよくば登記を済ませようとした形跡ではないかと疑った。
「やれやれ、、、また面倒な話になりそうだ」
証人欄の空白が意味するもの
申請書の文字を注意深く見つめていると、印刷された活字と手書き部分のインクの濃度にわずかな差異があることに気づいた。つまり、申請人欄と証人欄で使われたペンが違う。
だが、空白の証人欄には、うっすらと指の脂が染みついていた。それは誰かがペンを握って躊躇し、結局署名しなかったという「迷いの痕跡」に見えた。
なぜ、その人物は署名をやめたのか。あるいは、やめさせられたのか。
朝の一報とサトウさんの睨み
コーヒーを片手に席へ戻ると、事務員のサトウさんがじっと俺を見ていた。たまにあるんだ、こういうサザエさんの波平に似た「無言の圧」が。黙っていれば、こちらの状況をすべて把握しているような目。
「また登記書類の話ですか」と一言。ああ、その通りだ。今回は面倒ごとの臭いが強すぎる。俺がコップを置くよりも早く、彼女は法務局の記録照会ページを開いていた。
恐るべし、サトウさん。
依頼書の再確認
書類と一緒に同封されていた「遺言執行依頼書」には、渡辺氏の署名があった。しかし、その筆跡が微妙に揺れていた。過去の資料と照合したところ、同一人物によるものだが、妙に不自然に震えている。
サトウさんが冷静に言った。「もしかすると、高齢による判断能力の衰え、あるいは、、、他人の代筆かも知れません」
そう言われると、疑念がより深くなる。
証人がいたのに署名がない
渡辺氏の息子である卓也氏に連絡を取った。彼は病院での最期を看取った数少ない親族だという。対面すると、彼の第一声が印象的だった。
「実は、証人になるよう父に頼まれたんです。でも、、、怖くなって、やめたんです」 なんと、署名をしなかった証人候補が、ここにいた。
まさに、証人欄の空白は、意図的に残された「沈黙の告発」だった。
やれやれ、、、今日も騒がしい
息子の証言を裏付けるように、登記申請書の封筒から、使用されなかったインクペンが見つかった。それは、彼の持っていたボールペンと型も色も一致していた。
「やっぱりか」と思いながらも、全身がどっと疲れた。サトウさんに言わせれば、俺の顔がすでに“カツオが波平に叱られる5秒前”みたいだったらしい。
だが、これで少しずつ真相に近づいた。
昔の案件に似ている?
十年前、同じように証人の署名だけが抜けた申請案件があった。その時は証人が直前で亡くなっていたが、今回は明らかに「生きていたが署名を拒否」した。
これは、単なる偶然か、それとも「署名を拒む者」が登場するパターンが、また繰り返されているのか。
「いやなデジャヴだな、、、」と呟いたが、サトウさんは静かに頷いた。
司法書士が知るべき登記の矛盾
登記とは、形式と実質の微妙なバランスに成り立つ世界だ。証人が実在していたこと、署名を拒否した理由、そして何より渡辺氏が本当にこの登記を望んでいたかどうか。それを解明するのが、俺の仕事だ。
形式だけを見て終わらせることはできない。そこに人の意思がある限り、真実に近づく努力をしなければならない。
登記は単なる「登録」ではない。それは、人生の節目の記録なのだ。
証人欄の空白が語る結末
最終的に、この申請は却下された。法務局は証人の存在確認が取れなかった以上、登記を受理するわけにはいかないという判断を下したのだ。 だが、その判断は正しかったと思う。 真実をねじ曲げてまで手続きが進むのは、司法書士として一番避けたいことだ。
サトウさんが言った。「これでまた、誰かが救われたかもしれませんね」 俺はうなずいた。 「やれやれ、、、結局、証人は現れなかったけどな」
証人欄の空白。それは、ひとつの登記に残された、最後の告白だったのかもしれない。