依頼人第一主義が染みついた日常の始まり
司法書士という仕事は「人の役に立っている」という実感を得やすい職業かもしれない。依頼人が困っていて、それに応えることで感謝される。やりがいがある。そう思っていたのは、いつの頃までだったろう。いつの間にか、その「誰かのため」が当たり前になり、気がつけば「自分のため」は存在しない日々が続いていた。地方の小さな事務所で一人、依頼人のことばかりを考えて動く毎日。気づかぬうちに、自分がどんどん置き去りにされていたのだ。
気がつけば朝から晩まで誰かのための仕事
朝一番の電話で目が覚める。「急ぎなんですけど……」という一言に、予定していた朝食は牛乳一杯だけになり、すぐさま出勤。午前中は登記書類のチェック、昼は相談者との面談、午後は法務局。合間に数件の電話とメール返信。休む時間なんてどこにもなかった。それでも「頼られている」と思えば動けてしまう。でもそれは、自分の体力や気持ちを犠牲にして成り立っていたのだ。
電話が鳴れば食事も中断する反射神経
昼食をコンビニのおにぎりにして、机に座る。だが一口かじったところで電話が鳴る。「あ、先生。今すぐ確認してほしいことがあって……」結局、おにぎりは机の端で固くなっていく。こういうことが何度もあると、「いつでも対応できるようにしておくこと」が当然になる。まるで消防士のような構えで日々を過ごすようになり、ふと「自分の時間」ってなんだったか忘れてしまった。
今すぐお願いしますに弱い性格が災いする
「先生にお願いしたくて」「急ぎでどうしても」……そう言われると、どうしても断れない。断る=冷たい人間、という刷り込みがあるのだろう。昔から、人の期待には応えようとするタイプだった。それが元野球部だった頃の「チームプレー精神」として身についてしまっていたのかもしれない。でも今は一人の事務所経営者。全部引き受けることは無理なのに、未だにそれを認められずにいる。
ありがたくて苦しい依頼の数々
依頼が来ることはありがたい。それは間違いない。事務所を回すには仕事が必要だ。でもそれが多すぎると、「ありがたい」が「苦しい」に変わる瞬間がある。その瞬間を自分で見極めないと、本当に倒れてしまう。以前、熱があるのに面談に出て、帰ってきて倒れたことがある。「無理して来なくてもよかったのに」と言われたとき、なんとも言えない気持ちになった。
先生にしか頼めないと言われる喜びと重圧
「他の人には頼めないんです」「前にお願いした時すごく助かったから」……そんな風に言ってもらえると、本当に嬉しい。でも、それは同時に逃げ場を失う言葉でもある。「また期待に応えなきゃ」とプレッシャーがのしかかる。そして応えられなかったとき、自分を責めてしまう。人の期待を裏切ることに慣れていない自分にとっては、それが一番苦しい。
仕事があることの安心と自己犠牲の境目
この業界、特に地方では仕事がない不安が常にある。だからこそ、目の前の仕事は何でも受けたくなる。その積み重ねが「自己犠牲」になるとは気づきにくい。生活を守るために働くのは当然。でも、その中で「自分を守る働き方」も必要だと、最近ようやく分かってきた。気づくのが遅すぎたかもしれないけど。
うっすら残るなんで自分だけが口にできない
他の司法書士がもっと効率よく仕事を回しているのを見ると、「なんで自分だけこんなに忙しいんだ」と思うことがある。でも、そんなことを言っても仕方ないし、誰にも相談できない。事務員に愚痴っても伝わらないし、同業者には弱音を吐きづらい。だから黙って背負ってしまう。結果、心のどこかに澱のような疲れが溜まっていく。
自分を後回しにした結果の小さな崩壊
ある日、何でもない登記の打ち合わせ中に、ふとめまいがした。そのままトイレに行って鏡を見たら、自分の顔がひどく疲れていて驚いた。「これが他人から見えてる自分なのか」と思った瞬間、情けなくなった。仕事は回っていても、自分の中身はすり減っていた。少しずつ、静かに、自分が壊れていたのだ。
肩こりと頭痛と虚無感が同時に来た夜
その夜、机に座ったまま何もできなかった。書類を前にしても頭が回らない。肩こり、頭痛、そして「なんのためにやってるんだっけ」という虚無感が押し寄せた。こんな状態でまともな仕事ができるはずもない。でも「明日も依頼がある」と思えば、休むという選択肢が消えていく。このまま続けていたら、心身ともに潰れるのは時間の問題だった。
誰にも言えないもう嫌だの気持ち
本音では「もう嫌だ」「休みたい」と思っていた。でもそれを口にすると、すべてが崩れる気がした。こんな小さな事務所で、自分が倒れたら終わりだとわかっていたから。だから無理して笑って、淡々とメールを返して、次の予定を確認して……そんな風に毎日をやり過ごしていた。誰にも言えないというのが、余計につらかった。
休む勇気より怖かったのは信頼を失うこと
休むこと自体が悪いとは思っていない。でも「休んだことで依頼人に不安を与えるのではないか」という怖さが常にあった。地方の個人事務所にとって、信頼は命綱だ。一度でも「頼りにならない」と思われたら、それで終わる。そう思い込んでいたからこそ、身体が限界を迎えても、自分を許せなかった。
一日休むだけで世界が崩れるような恐怖
以前、熱で倒れて一日だけ休んだことがある。その翌日、机の上には山のような書類と留守電とメール。「一日休んだだけでこれか」と、ため息しか出なかった。その時、「もう休めない」と思ってしまった。たった一日、世界が崩れるような恐怖。実際は崩れてないんだけど、精神的には完全にやられていた。
代わりがいないことのプレッシャー
この業界、そしてこの規模の事務所では「代わり」はいない。事務員がいても、登記の判断や相談業務は自分にしかできない。代わりがいないというのは、自由がないということだ。家族もいない。誰にも頼れない。そうやって自分をどんどん追い詰めていた。でも本当は、少し休んだくらいで世界は終わらない。それを信じるのが難しいだけだった。
自分を取り戻すためにできたことから始めた
いきなり休むことはできなかった。でも、少しずつ「自分を大事にする行動」を始めることはできた。例えば、甘いものを我慢せずに食べる。夜は30分だけ好きな本を読む。そんな小さなことが、「あ、自分ってまだいたんだな」と思わせてくれた。誰かのために働く前に、自分が潰れては意味がない。
コンビニのスイーツを堂々と食べる夜
ある夜、コンビニで普段は買わない高めのプリンを手に取った。少し罪悪感もあったが、それを食べた瞬間「うまいなぁ」と思った。たったそれだけのことで、少しだけ自分が報われた気がした。「俺にも甘やかしていい部分があっていいんだ」と思えた日だった。そんな小さな喜びの積み重ねが、崩れかけた自分を少しずつ戻してくれた。
ごめん今日は無理ですが言えた日
ある日、急な依頼に「申し訳ないですが今日は無理です」と返信した。その時、手が震えた。でもその後、相手は「分かりました、また明日でも大丈夫です」と言ってくれた。拍子抜けしたが、それと同時に「なんだ、言っていいんだ」と思えた。自分を守るための「NO」は、誰かを裏切ることじゃない。そう気づけたのは、大きな一歩だった。