朝の静寂を破った電話
8月の朝。夏の熱気はまだ本格的ではないが、それでも事務所の空気はだるい。エアコンのスイッチを入れる手が、いつもより重い。登記が完了した案件を整理しようとした矢先、電話が鳴った。受話器越しに聞こえてきたのは、先日登記を完了したばかりの依頼人の声だった。
「先生、登記、変じゃありませんか?」 その一言で、今日が静かに終わる日はもう来ないと悟った。
いつも通りの登記完了通知
法務局から戻ってきた登記済証に異常はなかった。書類も揃っていたし、登記識別情報通知も問題なく封入されていた。確認したはずだ。いや、したつもりだった。あのとき、確かにサトウさんが書類を整えてくれていた。私はただ印鑑を押し、封筒に入れ、依頼人に送付しただけだった。
あの作業の中に、どこか綻びがあったのだろうか。
登記済証と笑顔と沈黙
依頼人は封筒を片手にやって来た。彼は優しげな笑顔を浮かべながら、机の上にそれをそっと置いた。そして、開けた。中には、見慣れない書類が一枚、まるで誤って混入したかのように入っていた。
「これは…私の契約書じゃない」 私の中で、冷たいものが背中を走った。
依頼人が語った違和感
「受け取ったときは気にしていなかったんです。でもよく見たら、地番も違うし、登記義務者の名前も別人でした」 彼の口調は穏やかだったが、目は笑っていなかった。 「間違えて他人の登記済証を送った…そんなこと、ありえますか?」
いや、ありえないはずだった。サザエさんのカツオじゃあるまいし。
サトウさんの冷静な一言
その場にいたサトウさんが、静かにファイルを開いた。彼女の目が鋭くなるのは、こういうときだ。 「これ、同日に受けた登記と案件番号が1つずれてます。先生、これ、封入するときに逆に入れてませんか?」
「やれやれ、、、」思わず私はため息をついた。頭を抱える私を横目に、彼女は冷たく言った。 「カツオ以下ですね」
印鑑の位置と日付の矛盾
二つの案件の契約書を並べて見比べてみると、違いはすぐに分かった。印鑑の押印位置が微妙にずれている。日付が記入された欄には、修正液の跡。おそらく、どこかで入れ替わったのは確かだ。
その原因が、私の「ながら作業」であることは、火を見るよりも明らかだった。
舞い戻った契約書の影
誤って送った登記済証の本来の持ち主にも連絡を取らなければならなかった。だが、彼とは連絡が取れなかった。電話は不通、メールも返ってこない。まるで、忽然と姿を消したようだった。
その沈黙こそが、今回の事件の核心に思えた。
誰がすり替えたのか
私のミスだと思っていたが、どうも違う。 「これ、最初からすり替えられてた可能性ありません?」 サトウさんのその一言が、私の中でくすぶっていた疑念に火をつけた。 「でも誰が?」
その答えは、思いもよらない方向からやってきた。
野球部仕込みの読みと直感
高校時代、キャッチャーだった私は、相手の動きからクセや意図を読み取る力には自信がある。今回も、その感覚を頼りにした。
封筒の封が一度開けられていた形跡。切手のズレ。そこに気づいたとき、真犯人が見えた。
昔の仲間の名前が出てくる
依頼人の前住所をたどると、そこにあったのは私の高校時代の野球部仲間の名前だった。彼は最近、不動産業を始めたばかりだったはずだ。
「まさか、アイツが…?」
サトウさんの推理と私の一手
「情報抜き取り目的ですね。わざと封筒を開けて、他の書類を入れ替えて…それで、本物の登記識別情報だけ抜き取ってた」 サトウさんの推理は鋭かった。
私はすぐに法務局と警察に連絡を入れ、状況を説明した。
役場に残されたサイン
不動産取得の履歴を確認したところ、彼が偽造された登記識別情報で別名義に登記を移していたことが発覚した。 決定的だったのは、役場に残っていたサイン。それが私の依頼人の筆跡とまったく違ったのだ。
「やっぱり、犯人はアイツだったか」 私は自分の読みが当たったことに、少しだけ誇らしい気持ちを抱いた。
真実にたどり着いた夜
すべてが解決したあと、私は疲労困憊で事務所に戻った。依頼人には謝罪と訂正の手続き、そして慰謝の意を込めた手紙を送った。
そして自分にも言い聞かせるように、ひとつの教訓をメモに残した。 「登記は完了してからが本番」 この言葉を忘れまい。
司法書士としてできる償い
登記識別情報の不正取得は未然に防げなかった。しかし、その意図を見抜き、依頼人の権利を守ったことには意味があると信じたい。
司法書士は、書類だけじゃなく、人の未来を預かっているのだ。
翌朝の事務所と二人の会話
翌朝、いつもより早く事務所に着くと、サトウさんが既に机に座っていた。 「先生、またやらかさないでくださいよ」 彼女の目は笑っていない。
私はぬるくなったコーヒーをすすりながら、小さくつぶやいた。 「やれやれ、、、次はもっと慎重にいこう」
サトウさんの塩対応と微笑み
「慎重にやってくださいね、マジで。私はタイムマシン持ってませんから」 彼女の塩対応は相変わらずだったが、その口元が少しだけ緩んでいた気がした。
事件の余韻が残る朝。日常は、また静かに始まっていく。