忙しさの合間に舞い込んだ奇妙な謄本
朝から法務局と依頼人対応に追われ、昼を過ぎた頃にようやく椅子に腰を下ろした。デスクにはまたしても新しい書類の束。しかも、その中には見慣れた物件の謄本があった。だが、何かがおかしい。微かにだが違和感があった。
それは、手触りだった。紙の厚みや折り目が妙に雑で、しかも裏面に何か書き込みがあるような気配があった。
「あんた、さっきからその紙に呪いでも込めてるんですか?」塩対応のサトウさんが冷めた声を投げてきた。
古い謄本の裏に見つけた違和感
表面には問題ない。不動産の表示も、所有権移転の経緯も、特に瑕疵はない。だが、裏返した瞬間、僕は息を呑んだ。
「これ、誰が書いた?」謄本の裏面に、ボールペンで走り書きされたようなメモがあったのだ。
その文字は震えていて、内容はこうだった――「わたしの名前を消さないで」。
余白に書かれた見慣れぬ筆跡
書き込みは明らかに公式なものではない。誰かが後から書いた、感情のにじんだ文字。それが、まるでメッセージのように僕に問いかけてくる。
通常、謄本の裏に何か書かれることはない。そもそも裏面は使われない。なぜこの一冊だけこんなことになっているのか。
サトウさんが目を細めた。「ちょっと拡大してみましょうか。これ、筆跡がどこかで見た気がします」
登記記録に残されなかった人物
該当の不動産登記を確認したが、所有権の推移は父から息子へと綺麗につながっている。女性の名はどこにもない。
だが、謄本の表記からは漏れていても、実際には家族の一員だった可能性はある。たとえば、戸籍上認知されていない娘など。
「これ、あたしが家系図で洗い出しましょうか」と、珍しくサトウさんが自発的に動いた。これは相当気になっている様子だった。
サトウさんの無慈悲な一言と推理の始まり
「男ってのは、ややこしいことを全部女に押しつけるんですよ」サトウさんの毒舌はいつも通りだが、今回は妙に的を射ていた。
というのも、実際に調べていくと、相続人の中に「除籍された妹」の存在が浮かび上がったのだ。謄本には現れない、しかし確かにいた人物。
「やれやれ、、、また幽霊みたいな話か」と呟いたが、僕の中では既に一つの仮説が形を取り始めていた。
登記原因証明情報から紐解く過去の相続
過去の所有権移転原因は「贈与」となっていた。贈与者は父親、受贈者は息子一人だけ。だが、それが不自然だった。
もし娘がいたのなら、贈与契約に一筆でも名が出てもいいはず。それがないということは、意図的に排除された可能性がある。
「まさに家族という名の怪盗団ですね」と僕が言うと、「あんた、ルパン三世の見すぎ」とサトウさんが鼻で笑った。
半年前の抹消登記に潜む一行の矛盾
さらに読み解いていくと、半年前に行われた抵当権の抹消登記において、保証人として一名の女性名が使われていた記録が見つかった。
その名前が、謄本の裏に書かれていたものと一致していたのだ。保証人にも関わらず、相続の場面では名前が消えていた。
「消したのではなく、最初から見せなかっただけでしょうね。優先順位の問題ってことで」と、サトウさんが淡々と呟いた。
近所の古家と名前の一致が導く接点
その女性が使っていたとされる旧姓と、登記簿に残された地番の横にメモされていた通称が一致した。偶然とは思えない。
僕たちは急ぎ、現地を訪れることにした。古びた家屋の表札には、その名前がかすれて読み取れた。
中に人の気配はなかったが、郵便受けには生活の痕跡が確かにあった。
元所有者の娘と名乗る女性の行方
近隣住民の話によれば、女性は数ヶ月前に突然姿を消したらしい。荷物はそのまま、通帳や印鑑すら置かれたままだったという。
「逃げたか、消されたか……」つい声に出してしまった僕に、「あんた、サザエさんの波平さんにでもなったつもり?」とサトウさん。
だけど、その言葉にはどこか冗談ではない響きがあった。
法務局職員の「忘れ物」に潜んだ鍵
帰り際、法務局の古い記録室に寄った。担当職員が「そういえば昔、家族関係で揉めてた案件があった」とこぼした。
「あのとき、手紙が一通残されていてね。なんでか裏に書いてあったんだよ」と、その職員が引き出しから一枚の紙を取り出した。
それは例の謄本の写し。裏には、あの文字と全く同じ筆跡が残されていた。
サトウさんが放った決定打の一言
「この人、消えたんじゃなくて、消されたつもりでどこかで生きてる。自分の名を消されたまま」
サトウさんの言葉が、夜の静けさに吸い込まれていった。書類は真実を記録するが、感情までは記録しない。
「書類の世界では無力ですね、あたしたち」僕は苦笑するしかなかった。
女が消えたのは「書類の裏」ではなく「手続きの外」
結局、法的にはその女性の存在を回復する術はなかった。だが、僕らは彼女が「いた」ことを知った。それで十分だった。
謄本の裏に書かれたあの言葉は、最後の叫びであり、存在の証だったのだ。
「謄本の裏って、実はこっち側の世界かもしれませんね」サトウさんが珍しく詩的なことを言った。
事件の余韻とサトウさんの無表情なコーヒー
事務所に戻ると、サトウさんは無言でコーヒーを差し出してきた。冷めたそれをすすりながら、僕は独り言のように言った。
「やれやれ、、、あの女は、登記の外で最も強く生きていたのかもしれないな」
書類の山を見下ろしながら、僕は次の依頼書を手に取った。
書類に残らない物語もある
この仕事をしていると、数字や文字に隠された物語が見えてくる。だがそれは誰にも伝えられないし、法的な価値もない。
だからこそ、今日この日、誰かの物語を知れたことに意味がある。
謄本の裏にいた女。それは存在の証であり、記憶のひとかけらだった。