依頼人はやってこなかった
昼過ぎから降り出した雨が、事務所のガラス窓をしつこく叩いている。
僕はポットから入れたばかりのぬるくなったコーヒーを啜りながら、薄暗い外をぼんやり眺めていた。
本来ならこの時間、予約をしていた依頼人が来ているはずだった。だが、もう30分も遅れている。
封筒ひとつの来訪者
代わりに届いたのは、ポストに放り込まれた茶封筒ひとつ。
宛名も差出人もないその封筒には、謎めいた書類がひとつ入っていた。
それは、登記事項証明書。しかも、どこか見覚えのない名義人の記載があった。
名前が示す不在の気配
その名前には既視感があった。だが思い出せない。いや、思い出すべき記憶がないのだ。
それはまるで「ノリスケさんが自営業を始めた」と言われた時のような、あり得そうで現実味がない不安感だった。
その名前は、現地では誰も知らない。しかし、登記簿には確かに存在していた。
塩対応の助言
「それ、幽霊登記じゃないの」
塩対応がすっかり板についたサトウさんが、キーボードを打ちながら呟いた。
彼女の目はすでに複数の登記簿を横断的に検索している。やれやれ、、、頼もしいが、もう少し優しさが欲しい。
浮かび上がる奇妙な連続
不思議なことに、その名前は別の物件の登記簿にも存在していた。
しかも所有権移転登記がされた直後、すぐに別人へと名義変更されている。
法的には正しい。だが、その人物の実在を証明する情報が何一つない。
追跡開始
僕とサトウさんは過去の法務局の履歴データを洗い直し、旧所有者にも接触を試みた。
誰ひとりとして、その名義人と対面した者はいなかった。
全てのやり取りは代理人を通して行われ、本人確認書類も完璧だったという。
署名のない委任状
調査の末、公証役場に古い委任状の写しが保管されていることが分かった。
そこには、確かにその名が記されていたが、署名欄には不自然なかすれが残っていた。
そして、公証人が確認したはずの印鑑証明も、よく見ると番号が旧制度のものだった。
影の登場人物
「つまり、名義人は実在しないか、別人が成りすましていた可能性が高いってことね」
サトウさんが冷静に言い放つ。
その言葉が、僕の胸の奥に小さな警鐘を鳴らした。何かが、おかしい。
不動産業者の証言
ある街の小さな不動産業者が口を開いた。「ああ、その名前の契約書、うちでも何件かありますよ」
しかし、顔を見たことはない。契約はすべて、書類と電話だけで進んだという。
そのやり口は、まるで『ルパン三世』の偽札工場編で描かれた、影の主人公のようだった。
真相の手前で
不自然な名義変更と、不動産売買の連鎖。
僕の頭の中で、いくつもの点がひとつの線に繋がっていく。
そしてその先に浮かび上がったのは、ある中年男性の顔だった。彼は業界で有名な「名義屋」だった。
名だけを売る男
その男は、他人の名義を作り出し、短期間だけ合法的に存在させる技を持っていた。
虚偽登記ではなく、書類上すべてを正しく見せる巧妙さ。
もはや司法書士というより、闇の登記職人と呼ぶべき存在だった。
正義か、手続きか
僕は迷った。警察に通報することも考えたが、証拠はすでに曖昧だった。
代わりに、法務局に指摘文を提出し、登記簿の更正を促す形に留めた。
「名義人の所在確認不可」という法的な一文が、ひとつの決着を示していた。
雨が止んだ午後
一連の報告書を書き終えた頃、窓の外には夕焼けが差し込んでいた。
「やっぱり正義ってやつは、地味で孤独ですね」僕がそう言うと、サトウさんはふっと笑ったような気がした。
気のせいかもしれない。だが、少しだけ心が軽くなった気がした。