午前九時の奇妙な来訪者
その日も例によって朝から疲れていた。ようやく落ち着いてコーヒーを啜ろうかというとき、古びたスーツを着た中年の男がふらりと入ってきた。名乗りもせず、受付簿にも何も書かず、ただ黙って椅子に座る。嫌な予感がするスタートだった。
「相談したいことがありまして」と男は口を開いたが、声がどこか乾いていた。埃っぽい倉庫に響くラジオのような、あの感じ。なぜか鳥肌が立った。
不意に現れたスーツ姿の男
男の顔は特徴がないほどに普通だった。いや、むしろ「記憶に残らないような顔」と言った方が正確か。書類を持たず、手ぶらで来ているのに、登記の相談をしたいという。こちらが何を訊いても曖昧に答えるばかりで、ますます不気味だった。
名乗らぬ依頼と妙な違和感
「名前を…いただけますか?」と問うと、一瞬間が空いた。「…ミナミ、と名乗っておきましょう」その言い方にもまた、奇妙な含みがあった。まるで自分の名前を思い出せないような口ぶりだった。
登記の依頼にしてはおかしい
男の話によると、古い空き家の土地の名義を自分に戻したいという。だが、不思議なのはその地番が現在の地図に載っていないのだ。法務局でも検索結果が「該当なし」。完全に失われた土地に関する相談だった。
地番の特定ができない土地
「これ、おかしいですね」と俺が呟いた途端、後ろからサトウさんの舌打ちが聞こえた。手元のキーボードをパタパタと叩きながら、彼女は静かに立ち上がった。
本人確認書類を出し渋る男
「あの、身分証明書はありますか?」という彼女の問いに、男はうつむいた。「それが、なくしてしまって」再び鳥肌。名乗らず、証明もせず、存在しない土地の相談を持ち込む依頼者。司法書士冥利に尽きない、、、いや、迷惑な話だ。
サトウさんの冷たい一言
「幽霊じゃないですか」
パソコン画面をにらみながら、サトウさんが呟いた。俺は思わずむせた。「おい、サザエさんじゃあるまいし」と言いかけたが、彼女の目は本気だった。
「これ幽霊じゃないですか」
「この名前、昭和六十三年に死亡してます」彼女は戸籍システムから該当する人物を即座に引っ張り出していた。しかも、その人物は地元の廃屋で孤独死していた男だという。「やれやれ、、、俺の事務所はいつから霊媒師業になったんだろうな」
やれやれ、、、まさかと思ったが
まさかとは思ったが、サトウさんの調査に狂いはない。どうやら、本当に“ミナミ”と名乗った男はこの世の人ではないらしい。話の筋も辻褄が合わない。思えば、彼が腰掛けた椅子も、少しだけ埃が残ったままだった。
戸籍を辿ると見えてきた真実
本籍、筆頭者、生年月日、死亡届。全てが一致していた。男の存在は、法的にはすでに終わっていた。だが、彼の土地についての執着は何か理由があるようだった。調査を進めるうちに、ある未開封の遺言書の存在が浮上した。
既に死亡した人物と一致する氏名
廃屋の近所の古老に話を聞くと、「ああ、あそこに住んでたミナミさんなら、長いこと音沙汰なくてな…。けど、不思議とあの家から灯りが見えた夜もあったよ」まるで、まだ彼が住んでいるかのような口ぶりだった。
筆跡の謎と供託金の矛盾
そして、法務局に供託されていた金の出所も問題だった。死亡後の人物が動かしたとしか思えないタイミングで供託されていたのだ。筆跡鑑定の結果、それはミナミと一致していた。死者の手続き? もはや現実離れしていた。
遺された遺言書の存在
ようやく見つけた遺言書は、封印されたまま地元の寺に保管されていた。「兄は…土地を手放したくなかったんです」と妹が語った。そこには兄の孤独と誇り、そして未練が綴られていた。土地に生き、土地に縛られた男の執念だった。
開封されぬ封筒と鍵のかかった金庫
遺言書には、亡き両親の遺影と共に金庫の番号が記されていた。中には古い土地売買契約書と共に、写真が一枚。「家族三人で写った最後の写真だったんです」と妹は静かに語った。
依頼人の妹の証言
「兄は生前、『絶対に他人の名義にはしない』って言ってました。きっと、それを伝えに来たんです」俺は息を呑んだ。依頼は、登記手続きというよりも、執念の証明だった。
地元の寺に伝わる因縁
地元では、「あの土地には祟りがある」とさえ囁かれていた。過去に開発業者が撤退したこともある。だが、祟りではなく、思念がそこに残っていただけだったのかもしれない。
「無縁仏の土地」の由来
昔、寺の住職が言っていたという。「あの土地は供養が足りぬ」と。名義変更どころか、存在の意味すら曖昧な場所。だが、そこに確かに暮らした人間がいたのだ。
昭和の失踪事件との接点
実は“ミナミ”は一時期行方不明扱いになっていた。だが、本人はそのまま廃屋で静かに暮らし、死を迎えた。遺族の手続きも途中で止まり、彼の人生もまた中断されたままだった。
サトウさんの推理が冴え渡る
「未登記のままになっていた原因は、土地台帳と地番のズレですね」サトウさんは無感情に言い放った。だが、その冷静さが今回も真実を導き出してくれた。
相談者の正体は死者の記憶
死者の思念が事務所を訪れ、過去を繋げた。それはまるで、昭和の名探偵アニメで語られる一話完結のドラマのように。俺は心の中で一人ごちた。「結局、最後に活躍するのは俺じゃない、、、」
そして導かれた登記の落とし穴
ミナミの名は記録としては消えても、土地と記憶には残り続ける。司法書士としての仕事とは、時に“無念”を記録に変えることかもしれない。
すべてが繋がった夜
廃屋に最後の線香を供え、妹とともに合掌した。その夜、ふと空を見上げると、事務所の前にミナミの姿が見えた。帽子を取り、静かに一礼し、すっと闇に消えた。
土地に刻まれた過去の真実
人は記録されることで生き続ける。俺はそう思っている。だから登記は、ただの手続きではない。土地の記憶をつなぐ仕事だ。
封印された想いと昇華の儀式
そしてそれを可能にするのが、俺たち司法書士の仕事だ。どんなにくだらない日々でも、こういう瞬間があるから、辞められない。
登記完了と見えぬ別れ
その土地は正式に相続登記され、妹の名義になった。だが、最後の提出書類の控えに、なぜか“ミナミ”の署名が薄く浮かんでいたような気がして、ぞっとした。
申請書に浮かぶ消えた印影
朱肉のあともなく、印鑑の記録も残らない。だが、たしかにそこに“彼”はいた。たぶん、最後の一押しは彼のものだった。
最後に一礼したあの男
夢だったのかもしれない。でも俺にはわかる。司法書士として、あの依頼は受けて良かった。いや、あれは、断ってはいけない依頼だったのだ。
事務所に戻ったいつもの日常
「幽霊にまで仕事頼まれるとか、安すぎじゃないですか?」サトウさんの塩対応が沁みる。俺はコーヒーを啜りながらため息をついた。「やれやれ、、、」
「幽霊に仕事させられるなんて」
今日も俺は一人。何も変わらない。けれど、確かに何かが変わった気がした。そんな日が、司法書士には時々ある。
そして俺は今日もひとりだった
コーヒーは冷めていた。窓の外には秋の風。どこかで、誰かがまた助けを求めている気がした。