静寂を破る電話
朝の事務所に鳴り響いた電話の音は、まるで火災報知器のように僕の神経をかき乱した。たった今、コーヒーを一口飲んだばかりだったのに、その一杯の安らぎも奪われた。
受話器の向こうからは、低く押し殺したような声。「先日お預けした書類、どうなりました?」という。お預かりした? いや、記憶にない。だが、その「記憶にない」が今まさに迷宮の入り口だった。
僕は電話を切り、机の上の書類を確認した。昨日の夕方から今日の朝まで、確かに何も届いていない。けれど、相手の言い方はまるで確信があるようだった。
不在届の封筒
午前中に郵便物の仕分けをしていたサトウさんが、ふと「そういえば、封筒が一通だけ見当たらない気がします」と言った。彼女はいつも冷静だが、その眉間にかすかなシワが寄っていた。
封筒が消える? サザエさんのエンディングで波平がマスオの靴を放り投げるみたいな、あんなドタバタ感が一瞬脳裏をよぎった。だが現実は、もっと面倒だった。
僕は書類棚の前に立ち尽くした。これまでの経験からして、こういうときは大抵、棚の奥かコピー機の下に転がっているものだ。
慌ただしい月曜の朝
週の始まりは大抵トラブルがつきものだ。今日はまさにその典型。いつもより来客が多く、電話も鳴りっぱなし。封筒一通が紛れ込んでもおかしくはない。
だが、依頼人が言うには、「添付書類は確かに入れました」と断言していた。それも委任状と一緒にとのこと。添付がない委任状は、ウナギのないウナ重みたいなものだ。
もし本当にあったとすれば、それはどこへ? そして、なければ——僕の責任になる。
添付書類が消えた
添付書類の喪失は、事務所にとって小さな事件ではない。申請の遅延、信頼の低下、そして何より「うっかり司法書士」としての僕の評価がさらに下がる。
だが、奇妙なのは、封筒自体が見当たらないということだ。たとえ添付を入れ忘れたとしても、封筒だけは残るはずだ。僕は書類棚を一段ずつ調べ始めた。
まるでルパンが金庫の暗号を探るように、慎重に、目を凝らして。やれやれ、、、月曜から探偵ごっこか。
提出済なのに見当たらない
依頼人が言うには、封筒は事務所ポストに投函したとのこと。ポストを開けて中を確認しても、今はもう空っぽだった。となると、届いたあとでどこかへ消えたのか?
ひとつの可能性が頭をよぎる——他の書類と一緒に、別の案件に紛れたのではないか。似たような封筒がいくつかあった記憶がある。僕は先週の案件ファイルをめくり始めた。
そこで一枚、妙な厚みのある封筒を見つけた。見覚えのない差出人。だが、開けてみるとそこにあったのは——依頼人の筆跡だった。
サトウさんの沈黙
それを見せると、サトウさんは珍しく目を丸くした。彼女でも気づかなかったのだ。どうやら昨日のファイル整理のときに、誤って仕分けしてしまったらしい。
「すみません、私がやったかもしれません」と言いかけた彼女を、僕は止めた。「いや、俺の確認不足だ」と苦笑い。けれど彼女の顔にはわずかな赤みが差していた。
それはまるで、次のセリフで「バカね」とか言いそうな昭和ドラマのヒロインのようだった。でも、彼女は何も言わず、ただ仕事に戻った。
書類棚の点検
僕は改めて、棚の整理を始めた。まるで毎回恒例のミステリースペシャルのように、何か起きるたびにこの棚が登場する気がする。
ただの棚、されど棚。人間関係も書類も、整っていなければ不安になる。書類の行方ひとつで、依頼人の未来が左右されることだってあるのだ。
そして僕の昼休みも、この棚に吸い込まれて消えていった。
古い登記申請の影
整理しているうちに、二年前の登記申請の控えが出てきた。そのときも似たようなトラブルがあった。確か、あのときは印鑑証明の添付を忘れたのだった。
人はミスを繰り返す。けれど、そこから何かを学べるかどうかが勝負だ。僕はその控えを見ながら、深くため息をついた。
やれやれ、、、本当に、僕は司法書士に向いているのだろうか。
棚の裏に落ちていたもの
最後に棚を少しずらしてみた。するとそこに、もう一枚の封筒が落ちていた。まるで、忘れ去られた遺跡の石版のように。
それは別の依頼人からのものだったが、内容は似ていた。つまり、今回のような混同は起きやすい状況にあったのだ。
犯人はいなかった。ただ、少しの不注意と時間の波が、この小さな迷宮を作っただけだった。
迷宮の出口
封筒は依頼人に無事返却し、再申請の準備も整った。事務所には平穏が戻ったが、僕の机の上は未だに混沌としていた。
「少しは片付けたらどうですか」とサトウさんが言う。僕は「うるさいな」と返しつつ、心の中では感謝していた。
今日もまた、紙と人とのドラマが幕を閉じた。迷宮の出口は、いつも意外と身近なところにあるのかもしれない。