登記申請の朝に届いた一本の電話
「すみません、今日中に登記をお願いできますか?」
電話の向こうの男の声は落ち着いているが、どこか焦りが滲んでいた。
私はカレンダーを見た。金曜日。法務局の受付は午後三時まで。急ぎとなると……嫌な予感がした。
「今日中にお願いします」と依頼人
「実は急ぎの理由がありまして」
そう言って彼は細かい説明を避けた。理由を聞いても「事情がありまして」と繰り返すだけ。
この手の“急ぎ登記”は、大抵トラブルの予感がする。
サトウさんの違和感と書類の違和感
私の隣で書類をチェックしていたサトウさんが小さく眉をひそめた。
「これ、なんだか変ですよ」
その声に私は書類を覗き込み、何が引っかかるのかを探った。
日付のズレと変な誤字に気づく
「印鑑証明書の発行日と委任状の日付が一日違います」
しかも、依頼人の名前の漢字が戸籍謄本と微妙に違う。「崎」が「﨑」になっていた。
単なる書き間違いでは済まされない。書類の正確性は命だ。
急がせた理由を聞き出せなかった依頼人
午前十一時、依頼人が事務所に現れた。スーツは高級そうだが、靴のかかとは擦り減っていた。
「あの、間に合いそうですか?」
彼は早口でまくし立て、目線を合わせなかった。
高級車と高圧的な態度
事務所前に止まった黒いベンツのナンバーがやけに語呂合わせ風で、胡散臭さを助長していた。
「早くしないと困るんですよ」と依頼人は吐き捨てるように言った。
「やれやれ、、、」私は心の中でつぶやいた。登記に“急ぎ”なんて単語は本来存在しないのだ。
不動産の名義が語る違和感
謄本を確認すると、対象不動産は数年前に相続登記されたばかりだった。
名義人の名前はどこかで見覚えがある。
不思議なことに、同じ名義人名が近隣の土地でも何件か見つかった。
過去の登記記録に奇妙な共通点
いずれも“生前贈与”での名義変更。
そして申請者が毎回異なる司法書士だった。
何かがおかしい。これは、単なる依頼じゃない。パズルのように断片が繋がり始めていた。
土地の隣人が語った亡き前所有者の話
現地確認と称して土地に足を運ぶと、隣人のおばあさんが声をかけてきた。
「ここの前の持ち主、急に亡くなったのよ。息子さんも姿見せなくなってねえ」
息子…?依頼人は甥と名乗っていたはずだ。
「本当は売るつもりなんてなかった」
「あの人、売る気なんてなかったのよ。不動産屋が何度も来てたけど断ってた」
おばあさんの言葉が胸に刺さった。
つまり、所有者の意志ではなかったということになる。
書類に仕込まれた小さな細工
サトウさんが書類をスキャンしていると、再度声を上げた。
「これ、印影が重ね押しされてます」
よく見ると、確かに印鑑のフチが二重になっていた。
司法書士の目が見抜いた偽造の跡
印鑑証明書のコピーと照合すると、微妙なズレがあった。
通常のスキャンでは気づかない程度の違いだ。
これは、誰かが作為的に印鑑を重ねた痕跡だ。
依頼人の正体は別人だった
調査を進めるうち、依頼人の名前で住民票が取得できなかった。
警察OBの知り合いにこっそり照会をかけると、思いがけない情報が入ってきた。
「その人物、数年前に死亡届が出てるよ」
免許証も印鑑証明も全て借り物
つまり、依頼人は他人になりすましていた。
印鑑証明もどこかから入手した“生きた証明”を使っていたことになる。
それは偽造の域ではない、完全な詐欺だ。
サトウさんの冷静な一手
「申請、止めておきますね」
サトウさんは淡々と申請準備をストップした。
そして法務局と警察に、二重連絡を入れていた。
法務局への申請を寸前で止めた
私が逡巡している間に、すべてが整っていた。
「やっぱり一人でやらない方がいいですよ、先生」
そう言われて、私は何も言い返せなかった。
事件の裏にあった兄弟の確執
後日、警察の取り調べで明らかになったのは、依頼人は名義人の弟だった。
兄の死後、不動産を巡って揉めに揉め、最終的に遺言を偽造する計画に至ったらしい。
だが兄は贈与の意思を示していなかった。
財産をめぐる静かな戦争
登記とは財産の境界を決める手続きだ。
だが時にそれは、人間関係の境界線までも浮き彫りにする。
今回のように、その線を無理に越えようとする者もいる。
名義変更が完了する直前に届いた刑事の電話
「シンドウ先生、いまそちらに向かってます」
電話越しの刑事の声は穏やかだったが、その意味は重かった。
依頼人は現行犯で連れて行かれた。
「被疑者はそちらに向かってます」
事務所のドアが開く直前だった。
刑事たちが飛び込んで、依頼人を取り押さえた。
登記簿はまだ白紙のままだった。
すり替えられた委任状と不在者の印鑑
提出寸前の委任状は、どこかが違っていた。
比べてみると、微妙に筆跡が変わっている。
すり替えられたタイミングは、おそらく初回の面談時だ。
消えた依頼人の本当の狙い
彼の目的は、名義変更を既成事実にすることだった。
そうすれば裁判になっても「登記済み」で通せる。
登記の重さを逆手に取った悪用だった。
最後に書類が語った真実
最初から偽装されていたのは書類ではなく「信頼」だった。
我々は依頼人の言葉を信じ、手続きを進めていた。
だが書類は、最後に真実を明かしてくれた。
登記を急がせたのは罪を確定させるためだった
あと数時間遅れていたら、全てが成立していた。
だからこそ、彼は“ちょっとだけ急いだ”。
その“ちょっと”が命取りになったのだ。
事務所に戻った静かな夕方
夕方、私は缶コーヒーを片手に椅子に沈み込んだ。
外ではセミが鳴き続けている。事件は終わった。
が、次の依頼の電話がもう鳴り始めていた。
サトウさんの「お疲れさまでした」に救われる
「先生、今日はよく止めましたね」
サトウさんのその一言に、私は思わず笑った。
「ああ、ありがとう。……やれやれ、、、助かったよ」