印影が語るもうひとつの真実

印影が語るもうひとつの真実

朝の郵便受けに忍び込んだ違和感

朝の空気は湿っていて、シャツの首元がじっとりと汗ばむ。事務所に着くなり郵便受けを開けたが、その中に妙に分厚い封筒がひとつ混じっていた。差出人は見覚えのある地元の不動産業者。けれど、その委任状に押されていた印影がどうにも見慣れなかった。

印鑑は普通、丸くて真ん中に名前が書かれているだけだ。しかしこの印影は、少し右寄りに偏っていて、書体もどこか崩れている。なんとなく「わざと歪めて押した」ような意図を感じる。

直感的に「何かがおかしい」と思った。それが、この小さな事件の始まりだった。

封筒の中の委任状と見慣れぬ印影

机に広げた書類一式の中で、ひときわ目立ったのが委任状だった。内容はごく普通の不動産の所有権移転のものだが、そこに押された印鑑だけが浮いて見える。色も他と違い、若干赤黒く、滲みも不自然だった。

「こんな印影、どこかで……いや、見たことないな」

ため息混じりに呟いた声に、すかさず奥から足音が聞こえた。いつもながら、彼女の耳は鋭い。

サトウさんの冷静な分析と無言の指摘

「これ、朱肉が違いますね」とサトウさんは言った。彼女が見せてきたスマホには、過去に我々が取り扱った別の委任状の画像が並んでいる。それと今回の印影を比較すると、明らかに違っていた。

「依頼者が自分で押したって言ってました?」とサトウさん。私は少し顔をしかめて頷いた。

やれやれ、、、この感じ、また一悶着あるなと胃がキリキリした。

依頼人の記憶と食い違う印影

午後、依頼人が事務所を訪れた。細身で気弱そうなその男性は、資料の説明を受けながらも目線を泳がせていた。話を印影に向けたとたん、彼は一瞬だけ沈黙した。

「あの……確かに押したと思います。たぶん、ですけど……」

曖昧な返答。それは、真実を隠している者特有の間である。何かを恐れているのか、それとも記憶が曖昧なのか。

不自然に空白の多い内容証明の文面

提出書類の中には内容証明郵便も含まれていた。だが、その文面には不自然な空白が多い。改行も句読点も不揃いで、誰かが無理に作ったような稚拙な文体だった。

「誰かが代筆したのでは?」とサトウさんが呟いた。私は黙って頷いた。委任状に加え、内容証明まで怪しいとなれば、これはもう偶然では済まない。

印鑑だけでなく、文章の筆跡までも調べる必要がある。

古物商台帳と一致した印影

私はかつての顧客ファイルを探り、印影が似ている過去の案件を確認した。すると、10年前に処理した古物商の開業申請の台帳に酷似した印鑑を見つけた。

「これ……同じ印じゃないか?」

古物商申請の際に使用された印鑑。今回の委任状と一致する可能性が出てきた。

元依頼人の過去の登記記録を探る

登記簿をさかのぼり、元依頼人の所有していた過去の物件を調査した。すると、かつて名義変更されていた案件がいくつか浮かび上がってきた。

そのいくつかの登記に共通していたのは、すべて同じ印影と不自然な内容証明の提出があったことだった。

これで、ただの勘ではないと確信した。

午後の一服とサザエさんに学ぶ教訓

コンビニのコーヒーを片手に、私はベンチに腰を下ろしていた。ふと脳裏に浮かんだのは、サザエさんでカツオが宿題をごまかす回。

あのずる賢さ、似たような匂いがする。ばれなければいい、という軽い気持ち。それがトラブルの始まりなのだ。

「なにごとも早めに正直が一番」とナレーションが聞こえた気がした。

「この印鑑、どこかで見たような…」

再度事務所に戻り、印鑑台帳をじっくり見直していた時だった。「この欠け……前も気になったんだよな」

私は虫眼鏡で右下の欠けを確認し、それが過去の事件と一致することを突き止めた。

印影が語っていたのは、まさに“もうひとつの真実”だった。

サトウさんが見抜いた共通点

「インクのにじみ方が同じです」とサトウさんが言った。

そう、偽造された印影は一見すると違うように見えても、滲み方に特徴がある。彼女の指摘で決定的な証拠がそろった。

過去の事件との共通点、それがトリックの裏にあった。

印影の右下にある微細な欠け

その欠けは肉眼では気づかないほど小さいものだった。しかし、複数の書類を重ねて比較することで浮き彫りになった。

「この人、印鑑を使い回している……しかも他人名義で」

やはりこれは故意の偽造。刑事事件になる可能性すらある。

二重の委任状と偽造のトリック

さらに調査を進めると、今回の委任状とは別に、もう一通の委任状が他の司法書士に提出されていたことが判明した。

同じ人物が、別の印鑑と筆跡で全く異なる内容の委任を行っていたのだ。

偽造のトリックは、紙の複写式の台紙を使って複数の文書を同時に作成する古典的な手法だった。

司法書士登録番号のなりすまし

しかも驚いたことに、そのもう一通には私の登録番号が記載されていた。

私が知らないうちに、偽の委任状に自分の番号が使われていたのだ。

怒りよりも恐怖のほうが先に来た。

役場に潜んでいた偽造の痕跡

役場の副本記録を確認すると、そこにも同じ偽造の痕跡があった。

印影と筆跡が一致しているのに、委任者名が微妙に違っている。明らかに同一人物が成りすましていた。

決定的だったのは、印鑑の押し方。微妙な傾きまで再現されていた。

筆跡と印鑑の矛盾に気づいた瞬間

「筆跡は左利きの特徴があるのに、印鑑の押し方は右手の角度だ」

それに気づいた瞬間、私とサトウさんは顔を見合わせた。

ついに、パズルの最後のピースが埋まった。

告発と逮捕とスッキリしない後味

後日、地元警察に資料を提出し、調査の結果、依頼人は偽造と詐欺未遂で逮捕された。

だが、それで気持ちが晴れたわけではない。人を信じて書類を扱う職業だからこそ、今回の件は心に残った。

「登記は終わりましたが、、、何か?」と呟いて、自分を納得させるしかなかった。

動機は古い借用書と相続放棄のからくり

事件の動機は、亡き父の借用書を帳消しにするためだった。

相続放棄をしたにもかかわらず、隠れた遺産に気づいたことで、彼は不正に名義を移そうとしたらしい。

やるせない話だが、それもまた人間の弱さというものだ。

事務所に戻るとサトウさんの一言

「次からは印影をじっくり見てから印鑑証明を確認しましょう」

その通りだ。私が慌てすぎていたのも事実。こういうときに限ってうっかりするのは、昔からの癖だ。

机に伏して、小さくガッツポーズを取った。

「一杯のコーヒーより静かな午後を」

サトウさんがつぶやいた。たまには平和な午後も悪くない。

コーヒーの香りとともに、静かに事件は終わった。

やれやれ、、、今日もまた、ひとつ勉強になった。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。





私が独立の時からお世話になっている会社さんです↓