午後の来訪者と一本の封筒
事務所のドアが開いたのは、昼下がりのコーヒーを淹れようとしたタイミングだった。足元が泥で汚れたスーツ姿の男が、息を切らして立っていた。彼の手には、使い古された茶封筒が握られていた。
「これ……見ていただけますか?」と差し出された封筒には、かすれた字で『登記識別情報』と書かれている。差出人名は消えかけていて判読できない。
なにか嫌な予感がする。私は封筒を受け取る前に、そっとサトウさんと目を合わせた。
突然の依頼と封印された土地
封筒の中身を確認すると、登記識別情報通知書とともに一枚の簡略な地図が入っていた。地図には『奥森地区 国有林の先』と赤線が引かれている。
依頼内容は、「父が昔買った土地を相続したいが、識別情報が使えない」とのことだった。しかしその土地は、登記簿にも現在存在しないことになっていた。
「土地が存在しない? いや、そんなはずは……」依頼人の顔に、焦りと戸惑いが交錯していた。
森の中に消えた登記簿
地元の法務局で調べたが、該当する地番は抹消された過去があるらしい。しかし理由までは分からない。登記簿の履歴すら残っていなかった。
「これは昭和の終わりに、何かがあったと見るべきでしょうね」とサトウさんが静かに言った。
森の地番が消える……それはまるで、サザエさんのエンディングでタマが急にいなくなるくらい唐突だ。
名義変更できない理由
普通であれば、識別情報があれば名義変更できる。しかし今回は土地の存在自体が消されている。つまり、手続きの前提が崩れているのだ。
私は胸の奥に、司法書士としての好奇心と一抹の不安を抱えながら、現地調査を決意した。
「行きましょうか、森へ」そうつぶやくと、サトウさんはうなずき、長靴とスプレー式の熊除けをバッグに詰め始めた。
サトウさんの冷静な分析
「これ、地番がごっそり消されてます。しかも複数筆まとめて。昭和63年に急に」サトウさんは、古い地図と公図を並べながら言った。
その時代、バブル崩壊前夜。何か大きな開発計画でもあったのだろうか。だが、その後の土地利用記録がない。
まるで地図の中に“削除”ボタンを押されたかのように、そこだけぽっかりと空白になっている。
昔の公図が示した真実
地元の古老に聞き込みをすると、かつてその森には測量会社の倉庫があったらしい。火災で焼失したが、中にあった登記簿の写しも全て灰になったという。
「まるで、消されたがっていたような土地ね」とサトウさんがつぶやいた。私は無意識に頷いた。
それでも司法書士としてできることは、証拠をつなぎ直すことだけだ。
識別情報の持ち主を追って
識別情報通知書に記載されたコードは有効だった。つまり、何者かが“正式なルート”でこの土地の登記を行っていた。
調査の末にたどり着いたのは、依頼人の父と共同出資していた男の名前だった。その男はいま、近隣で不動産業を営んでいる。
「ああ、その土地?……あれは忘れた方がいい」男はそう言い放った。
登記に潜んだ虚偽の申請
古い登記簿の閲覧申請の結果、ひとつだけ気になる記録が見つかった。登記簿の閉鎖処理が、本来なら必要な書類を伴っていなかったのだ。
つまり、誰かが虚偽の理由で土地を“消した”。しかも法務局がそれを通していた。
私たちはその手口を、かつての「不動産登記法第63条但し書き違反」に当たると判断した。
夜の森で交わされる取引
依頼人と共同出資者の男が、再び森の前で顔を合わせたのは、その週の金曜夜だった。私はその場に同席していた。
「もう終わりにしましょう」依頼人が言い、男はしばらく沈黙したあと、小さな箱を差し出した。
中には、昭和63年に交わされた売買契約書の写しと、当時の公図が入っていた。
鍵を持つ男の正体
男はもともと地元の役所で勤務していた。書類の偽造が可能だった立場にあった。つまり、抹消処理をしたのは彼自身だった。
「罪を償うつもりはないんですか?」と聞くと、男は「それができるなら……とっくにしてますよ」と答えた。
やれやれ、、、また胸焼けしそうな結末だ。
やれやれ、、、とつぶやいた朝
結局、土地の回復には時間がかかる。しかし少なくとも登記は復旧できる見通しが立った。
サトウさんは朝の光の中で、「昭和の闇って、意外と身近ですね」とだけ言った。
私はその横顔を見ながら、ポットに残っていた昨日のコーヒーを流し込んだ。
真相にたどり着いた司法書士
法務局への再申請書類は無事に受理され、識別情報の有効性も証明された。依頼人は静かに頭を下げた。
「これで父も安心できます」その言葉が、唯一の救いだった。
私はボールペンを回しながら、心の中でそっと呟いた。「野球部時代よりも汗かいてるかもな……」
封印は解かれ 森は静かに眠る
森は今、静かに夏の終わりを迎えている。風に揺れる葉音だけが、過去の秘密を知っている。
土地の価値よりも、そこに眠る記憶の方が重かった。司法書士の仕事は、そんな“重さ”と向き合う仕事だ。
誰にも見えない場所で、今日もまた小さな謎が書類の隅に眠っている。
依頼人が残したもう一つの遺言
後日、依頼人から手紙が届いた。「あの土地に小さな図書館を建てたいと思います」
それは、父が夢見ていた構想だったらしい。資料も、家具もすでに倉庫に眠っているそうだ。
登記識別情報。それはただの記号じゃない。過去と未来をつなぐ、静かな鍵なのだ。