届出書が語るもの
役所から持ち込まれた一枚の婚姻届は、やけに折り目が多かった。提出される予定が宙に浮いたまま、なぜか私の事務所へ依頼として届いた。それだけならよくある話だが、今回の件は少しだけ違った。
依頼主は30代半ばの女性で、目元に少し疲れたような影を落としていた。彼女は一言、「この婚姻届、受理されないようにしたいんです」と言った。
午後に届いた一枚の婚姻届
婚姻届は提出予定日の前日に差し止められた。彼女によると、相手の男性が無断で提出しようとしていたのだという。「愛しているから結婚する」とは限らない世の中だが、それにしても妙な話だ。
署名欄には彼女の名前がきれいに書かれていた。だが、彼女はそれを書いた覚えがないと言う。
奇妙な誤字と名前のズレ
気になったのは、彼女の名前の“崎”の字が“﨑”になっていたことだ。戸籍上の表記と異なる。仮に本人が書いたとしても、癖の違いは明らかだった。これはサザエさんのエンディングで波平の髪の本数が一瞬違うくらい、違和感があった。
まるで誰かが、彼女になりすまして書いたような文字だった。
依頼人は誰だったのか
彼女がこの書類を「自分が書いていない」と証明するためには、筆跡鑑定が必要だった。だが私は司法書士であって筆跡鑑定人ではない。困ったときの奥の手、例の“塩対応の参謀”に相談することにした。
机の向こうからサトウさんがメガネ越しに書類を覗き込み、「あー……これ、多分本人が書いてませんね」とあっさり断言した。
彼女は結婚したがっていなかった
調べていくうちに、彼女が結婚に前向きでなかったことが明らかになった。むしろ逃げたがっていたような気配すらあった。「好きだったけど、信じられなくなった」と彼女は漏らした。
だが、それならなぜ婚姻届があるのか?
筆跡の中に潜む第三者の意図
筆跡を比べてみると、微妙に文字の角度が不自然だ。あたかも、見本をなぞったような不自然さ。「サトウさん、これって…」と聞くと、「コピーしてなぞったんでしょうね。そうすれば本人の字に見えなくもない」と、いつも通りの冷静な声。
やれやれ、、、本当に人の気持ちが見えない人間というのは、こういう手を使ってくる。
サトウさんの違和感
サトウさんは婚姻届の提出予定日と、その日付のインクの濃さに注目した。提出予定日のインクだけ、わずかに滲んでいたのだ。
「これ、たぶん途中で書き換えた痕跡がありますね」と彼女は言った。
細すぎるボールペンの跡
細字のボールペンは彼女が普段使っているペンとは違っていた。調べたところ、男性側の職場で配布されていたノベルティのペンで書かれていたらしい。つまり、彼が用意し、彼が書かせた、あるいは書いた可能性がある。
だが、それだけでは決定的な証拠にはならなかった。
笑顔の裏の涙ぐんだ目
彼女が笑顔で帰ろうとした時、一瞬だけ目が潤んだように見えた。「でも、あの人は嘘つけない人だったんですけどね……」彼女の言葉に私は少しだけ胸が痛んだ。
もしかして、彼女の中にもまだ迷いがあったのかもしれない。
消された戸籍の痕跡
戸籍謄本の除籍簿を調べると、数年前に彼が別の女性と結婚していた記録が見つかった。そして、その婚姻は彼が彼女と出会う直前に解消されていた。だが、元妻との関係は完全に終わっていなかったようだ。
新しい人生を始める前に、過去の整理ができていなかったのだ。
除籍簿を追うシンドウ
「戸籍は嘘をつかない」と言いたいところだが、誰かがうまくごまかせば話は別だ。登記簿と同じで、人の記録も都合のいいように解釈されることがある。私の仕事は、その解釈を正すことでもある。
役所に残された手続きの痕跡を丹念に追った。
嘘の証人欄に潜む動機
証人欄の名前に心当たりがあった。彼の職場の同僚、しかも既婚者。その人物に話を聞くと、「頼まれてサインしただけで内容は知らなかった」と口を濁した。だが、その声の震えは隠せなかった。
偽装婚姻、それは彼にとって人生をリセットする最後の手段だったのかもしれない。
やれやれ、、、また妙な話だ
この手の書類トリックには慣れているつもりだったが、今回のは妙に感情が絡みついていた。依頼人の涙、男の焦り、第三者の曖昧な協力。真実は紙の上よりも、人の奥底にある。
私はサトウさんに「よく見抜いたな」と言ったが、彼女はただ「当たり前のことをしただけです」とだけ返した。
名前を偽った理由
彼は、結婚していればやり直せると思ったのだろう。名前を書き換えることで、過去を帳消しにできると思い込んだ。だが、結婚とは名前を並べるだけの契約ではない。
書かれた名前の意味を、彼はわかっていなかったのだ。
真の婚姻意思とは何か
彼女は婚姻届を手に、「これはもういらないです」と言った。そして、静かにそれを破り捨てた。きっと、彼女なりの決着だったのだろう。
人は誰かの奥さんになる前に、自分を守る術を知らなければならない。
最後に届いた封筒
事件から数日後、彼女から一通の封筒が届いた。中には礼状と、手書きの言葉が添えられていた。「あの人は嘘をついたけれど、あなたたちは正直でいてくれました」
私はそれを見て、小さくため息をついた。
開封された遺言書
後日、彼の父親の遺言書が開封された。その中に「次男には十分な信頼が置けない」と明記されていた。そのため、財産の大半は兄へ。今回の婚姻は、その焦りから来ていたのかもしれない。
だがそれも、彼女の前ではただの空回りだった。
遺された人に向けたメッセージ
彼女は再び自分の道を歩み始めた。誰かの名前に縛られず、誰かの奥さんになる前に、自分を取り戻すために。事務所の窓から見えた彼女の背中は、妙にまっすぐだった。
やれやれ、、、今日もまた、人の人生に首を突っ込んでしまったようだ。