登記簿に残らない夜

登記簿に残らない夜

登記申請に現れなかった依頼人

その日の午後、事務所には雨の匂いが漂っていた。鈍い空の色に合わせるかのように、予定されていた名義変更の依頼人から突然のキャンセル連絡が入った。
「急用ができたので、また後日」と、短い一文だけのメール。電話番号も繋がらず、まるで最初から存在しなかったかのような気配だった。
申請書一式がすでに整っていたこともあり、胸の奥に妙なざわつきを覚えた。

午後三時のキャンセル連絡

「まるでサザエさんで波平さんが突然海外赴任するとか言い出すくらい唐突だな」と独りごちた。
普通、ここまで準備された案件を直前でキャンセルするのは稀だ。しかも、メールに署名も電話番号もなく、ただの無記名の文章だった。
机に残された申請書の山が、取り残された過去の遺物のように感じられた。

依頼人は実在しないのか

依頼人の名前は「タカハシケンジ」。だが、その名前で過去に申請履歴が一切見つからない。
住所も賃貸物件で、しかも昨日付で解約されていたことが判明した。
「こりゃあ、本格的に幽霊と仕事したかもしれんな」と、ため息が漏れる。

謎の登記識別情報

キャンセル連絡のあった封筒の中には、なぜか登記識別情報通知が同封されていた。
本来、これは本人限定郵便でしか届けられないはずのもの。なぜ第三者がそれを持っているのか、理由がまったく分からない。
サトウさんに確認を求めると、彼女は即座に「偽造の可能性がありますね」と静かに答えた。

封筒に残された一通の委任状

さらに調査を進めると、封筒の底から一通の委任状が見つかった。差出人は「高橋建司」ではなく、「中村陽一」。
筆跡も全く異なり、印鑑はシャチハタ。法的効力どころか、悪戯に近い稚拙さだった。
それでも、そこに書かれた不動産の情報だけは正確で、所有者情報とも一致していた。

不動産の所有者欄が書き換わる予兆

気味が悪いほど、実在する物件情報が詳細に記されていた。
所有者名、地番、地目、すべてが正しく、まるで登記簿からそのまま転記したような内容だった。
「情報を持っている第三者の仕業か……あるいは、内部から漏れた可能性もあるな」とつぶやくと、サトウさんが「ええ。役所関係者の関与も視野に入れるべきです」と頷いた。

サトウさんの冷静な観察

「これ、登記原因証明情報の内容が少しおかしいですね」
サトウさんがPC画面を覗き込みながら、画面に映し出されたPDFの一部を指差した。
「日付のフォーマットが旧様式なんですよ。最近はこの書式、もう使われてません」

登記原因証明情報の違和感

たしかに、そこには「平成三十一年」と記載されていた。
西暦への完全移行後に提出される書類でこの表記を使うのは、よほど時代に取り残された人間か、過去の書類を流用した者だけだ。
登記内容が正確すぎることと、この古い表記。かえって偽物らしさを際立たせていた。

過去の申請番号からたどる真実

念のため、旧申請番号を法務省のデータベースで照会してみた。すると驚くべきことに、その申請番号は3年前に却下された名義変更案件と一致していた。
「つまり、今回の申請書類は、3年前の失敗をなぞってるわけですか」とサトウさん。
「やれやれ、、、」思わず呟いた。3年も経って、また同じ番号で仕掛けてくるとは、まるでルパン三世のような執念深さだ。

元野球部の直感が告げる罠

「この一連の流れ、たぶんダミーです」
高校野球時代のクセで、変化球が来るタイミングには敏感になっている。
正攻法の中にあるわずかな歪み、それが今回の偽装工作に共通していた。

やれやれとつぶやいたその瞬間

データ上ではすべて整っている。だが、実体のない申請、行方知れずの依頼人、偽名。
どれだけ書類が完璧でも、実態が伴わなければ法的には成立しない。
書類の完璧さが逆に不気味だった。「やれやれ、、、手間ばかりかかる事件だ」

本当に変更されたかった名義とは

調査の結果、一番怪しかったのは不動産の名義ではなかった。
実は、委任状の「委任者欄」に記された住所が、闇金業者の名義と一致していた。
つまりこれは、登記簿を使って債権の所有者を書き換える、いわば“名義人の影武者”をつくる計画だった。

役所に残された裏情報

最終的に法務局に照会をかけたところ、同じ人物が複数の名義変更申請を出していたことが判明。
すべてが途中で却下されているが、そのうち一件だけ、受理されかけた痕跡が残っていた。
ほんの一歩でも間違っていれば、不正が現実になっていた可能性がある。

紙ではなく心に刻まれた所有権

今回のような偽装事件では、結局のところ“所有”とは何かという根本に立ち返ることになる。
紙の上に書かれた情報は簡単に書き換えられる。だが、本当にそこに暮らしていた人間の記憶や生活は、誰にも偽造できない。
司法書士の仕事は、そうした人間の証明を裏付ける“紙の手続き”だ。

事件の結末と静かな夜

数日後、犯人と目される人物が逮捕されたという報せが入った。
あの封筒を送ってきたのも、その人物と見て間違いない。捜査には私の報告書がそのまま証拠として使われた。
夜、ひとり事務所でコーヒーを飲みながら、窓の外を見上げた。雨はもう止んでいた。

登記簿の外で交わされた約束

「この仕事、割に合わねえな」とつぶやくと、隣の机でサトウさんが小さく笑った気がした。
登記簿に名前は残らないが、確かに私は今回、誰かを守るために動いた。
それだけでも、司法書士としては悪くない夜だった。

それでも司法書士は記録し続ける

どんなに巧妙な偽装でも、記録の裏にある真実は消せない。
紙の書類の山、そのすべてが、人の暮らしの断片を映し出す証明書なのだ。
私は今日もまた、登記簿の一行に目を通しながら、次の依頼を待つ。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。





私が独立の時からお世話になっている会社さんです↓