朝の一報は役所からだった
「戸籍の件で確認したいことがあります」と電話口の声は硬かった。朝のコーヒーに口をつけた瞬間だっただけに、口の中に変な苦味が残った。役所からの電話にロクなことはない、というのは司法書士あるあるである。
気が進まないながらも、依頼人の資料を確認し、戸籍謄本を再度読み込む。そこには一見、何の変哲もない家族関係が並んでいた。ただ、ある欄だけが空白だった。父の名前——そこに違和感があった。
古びた戸籍謄本に違和感
文字が掠れているわけでもなく、単に空欄だった。「除籍謄本も見てみましょうか」と言いながら、僕はすでに嫌な予感がしていた。なぜこの欄が埋まっていないのか。そこには何かしらの理由があるはずだ。
依頼人は「母は何も言わなかった」とだけ言った。口を閉ざした家族は、時に警察よりも手強い。サザエさんのように笑って夕飯を囲む家庭がすべてじゃない。むしろ、あれは奇跡だ。
依頼人の動揺と無言の余白
僕の机の上には、戸籍が綴じられたファイルと、ペン先を噛みしめたままのボールペン。サトウさんが「またですか」と呆れ気味に呟いたが、その目は何かを読み取っていた。「おそらく、出生届が遅れたか、父の存在が届け出られていない」と彼女は言う。
「やれやれ、、、また厄介なケースだな」と僕はペンを置いた。戸籍というのは意外と“白紙”に多くを語らせる。それがこの仕事の妙だ。
戸籍の欄が語るものと語らぬもの
翌日、役所で取り寄せた除籍謄本には、見慣れない筆跡があった。しかも手書き。それもかなり古い。「昭和四十年以前の届出ですね」と窓口の職員は言ったが、書類の保管状態はいいとは言えなかった。
該当する人物の項目には「非嫡出子」と記載されているが、父の名はなかった。法律的には問題ないが、人として何かが引っかかる。そこに家族の意思があったか、無関心があったか、それは読み取れない。
死亡したはずの男の痕跡
一つだけ、気になるメモがあった。住所地の一部に、訂正印が押されていた。その訂正印の横に、赤鉛筆でなぞったような線があった。「これ、誰かが後から見てますね」とサトウさんが言った。
確かに、第三者が後から戸籍を確認した痕跡。それが何を意味するのかはまだわからないが、どうやらこれは単なる書類ミスではなさそうだった。
繋がらない親子関係の線
関係を示す欄には「長男」とある。だがその父の名前はない。もしこれが間違いであれば、訂正申請を行えばよい。だが、母一人で育てたという依頼人の言葉が本当なら、これは“記載しなかった”という意図があったということだ。
記載されないということは、存在しなかったのか、させたくなかったのか。いずれにせよ、この謎はもう少し追いかける価値がある。
サトウさんの冷静な一喝
「センセイ、感情移入しすぎ。これは戸籍です。感情は置いておきましょう」サトウさんがキーボードを叩く手を止めずに言った。ごもっともである。だけどね、やっぱり気になるんだよ。書かれなかった父の名前ってのは。
僕が黙り込むと、彼女は言葉を付け加えた。「でも、、、私も、それは知りたいとは思いますけどね」
消えた父の名を追う準備
調査を進めるには、母の戸籍を辿る必要がある。つまり結婚歴、転籍歴、全ての改製原戸籍を取り寄せなければならない。これはもう完全に推理の領域。探偵ごっこと言われればそれまでだが、司法書士も時にルパンのような執念深さが必要なのだ。
その夜、昭和の婚姻記録をデータベースで漁っていたら、旧姓で登録された「某氏」との婚姻記録を発見した。だが、離婚届が出された記録も同時にあった。結婚生活は三ヶ月だった。
市役所の地下で見た手書きの記録
古文書のような戸籍の束の中に、母の旧姓での記録があった。そこに一度だけ、父の名前が記載されていた。その名は、今依頼人が住む町の隣町で、現在も不動産を所有している人物と一致した。
僕は思った。「これはもう偶然じゃない。名を消しても、土地までは消せなかったか」
昭和の異字体とゴム印の違和感
父の名には旧字が使われていた。役所での検索はそれではヒットしない。「この字、今は使われてませんね」と職員が笑ったが、こちらとしては笑えなかった。こういう時、紙の記録の執念深さを思い知らされる。
サザエさんの中では波平が一家を見守るが、現実の家族はそんなに穏やかじゃない。名を継がせないということの重みを、僕は黙って受け取るしかなかった。
真実を告げるタイミング
依頼人に、結果を報告した。「あなたの父と思われる人物は現在も存命です。だが、戸籍上の証明は一切ありません。接触するかは、あなたの判断に任せます」
彼はしばらく黙っていたが、最後に一言だけ言った。「……聞けてよかったです」それがすべてだった。
名を残す意味と名を消す選択
僕たちは報告書をまとめ、案件を閉じた。記録を残すこと、それは時に人の傷を抉る。でも、それが司法書士の仕事だ。真実が人を救うとは限らないが、無知のままでは何も変わらない。
サトウさんが最後に一言だけ言った。「センセイ、今回はまあまあやるじゃないですか」いや、それほめてないよな。
そして今日もまた一件落着
僕は椅子に深く座り直し、カップの底に残った冷えたコーヒーを飲み干す。「やれやれ、、、今日もまた、名前のない誰かと向き合った気がするよ」
窓の外には、夕焼けとセミの声。記録に残らない感情が、街の空気に混ざっていくようだった。