印鑑は押せても心のざわめきまでは押し込めない

印鑑は押せても心のざわめきまでは押し込めない

静かに始まる月曜の朝と一通の依頼書

地方都市の月曜の朝は静かだ。都会のような喧騒もなく、商店街のシャッターがゆっくりと開いていく音すら、BGMのように思える。
事務所のカーテンを開けると、いつもの通りの空の色だった。
「先生、今日も例のカラスが電柱の上でにらんでますよ」
サトウさんの声は、いつもより少し眠そうだった。
そんな朝に届いた一通の封筒。表書きはきちんとしているが、裏の封が妙に丁寧すぎた。
差出人は、亡くなった男性の妹。内容は遺産分割協議書の認証。
だがその文面には、静かな違和感があった。

依頼主は喪服姿の若い女性

その午後、彼女は姿を現した。まだ30代前半と見える喪服姿の女性。
表情に浮かんだのは悲しみというよりも、どこか硬い決意のようなものだった。

遺産分割協議書の重み

協議書は丁寧に綴られ、形式に不備はなかった。相続人は兄と妹の二人、相続財産は自宅と少額の預金。すべてを妹が相続する内容だった。
兄の署名と印鑑も、しっかりと押されている。だが、それが妙に完璧すぎた。

形式は整っている だが何かが変だ

「先生、ここの筆跡、ちょっと不自然じゃないですか?」
サトウさんが指差したのは、兄の署名。
たしかに、用紙全体の文字と違い、そこだけ筆圧が妙に均一だ。
私の中で、サザエさんの波平が「こらカツオ!」と怒鳴るような違和感が頭に響いた。

サトウさんの違和感と冷静な観察眼

書類の細部に潜む小さな不一致

「先生、印影が新しすぎますよ。インクがにじんでない」
彼女の観察は的確だった。朱肉の乾き具合に不自然さがある。
「…これは、最近押された印かもしれないな」

筆跡と押印の微妙なズレ

さらに筆跡鑑定まではいかないが、兄の過去の署名と比較すると、明らかに違う部分がある。
やれやれ、、、また面倒な展開になりそうだ。

兄の署名が妙に新しい理由

亡くなったのは1か月前。その直前に書類が作成されたことになっている。だが、実際にはもっと最近押された可能性が高い。
しかも、その印鑑証明は取得日が葬儀の翌日。違和感の連鎖が止まらなかった。

やれやれ 私の胃は今日も重たい

ファミマのコーヒーすら苦く感じる昼下がり。
胃薬の棚が、もう残り一つしかないことに気づく。

シンドウ司法書士の地味で粘り強い推理

戸籍と印鑑証明に残る小さな矛盾

戸籍上の異動日と、印鑑証明の交付日。通常では考えにくいほどタイトなスケジュールだ。
市役所の印鑑登録は本人確認が必要だが、故人が登録を更新できるわけがない。

郵送日と日付の不整合をつなぐ糸

封筒の消印は今月上旬。しかし書類の日付は先月。
こういう微差を見逃すと、後で自分の首が絞まる。

たまにはファックスも役に立つ

市役所に問い合わせた結果、兄の印鑑証明は「生前最後の登録」ではなかった。
死亡後に申請された記録があった。誰が、どうやって?

心を押し殺していた依頼人の告白

兄の意向は本当に尊重されたのか

「…すみません、本当は兄は、相続は平等にと…」
彼女は小さな声で言った。
「でも、兄のお嫁さんが…書類を作るように言って…」

財産の影に潜む家族の温度差

兄の遺志より、遺された家族の都合が優先されたようだった。
協議書は妹に全てを譲る形だが、実際は義姉の圧力が背景にあった。

涙の跡が乾いたときに

「私も、心では納得していなかったんです」
その涙は、本当に判を押した理由を物語っていた。
書類では伝えられない感情が、そこにあった。

書類に残らないものを拾い上げる仕事

司法書士が見抜くべきは法だけではない

形式に問題がなくても、人の心に問題があることは多い。
私たち司法書士は、単なるスタンプマシンじゃない。

心の機微と向き合うこと

法と感情、その狭間で揺れる依頼人の気持ち。
時に、黙って聞くだけでも大切な仕事になる。

やれやれ 今夜も眠れそうにない

最後の胃薬を流し込んで、私は事務所の灯りを消した。
カラスはまだ電柱の上でこっちをにらんでいる気がした。
明日もまた、静かに、騒がしい日々が始まる。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。





私が独立の時からお世話になっている会社さんです↓