記載なき動機

記載なき動機

朝の事務所と届いた封筒

「寒いですね」などという会話はこの事務所には存在しない。朝、私が玄関の鍵を開けるとすでにサトウさんは席に着いていた。無言で湯気を立てるコーヒーを机に置き、手元のキーボードを叩く音が小気味よく響いていた。

デスクの隅には一通の封筒があった。差出人の名は書かれておらず、筆跡は震えていた。事務所の郵便受けに投函されたのだという。それだけで、私は一つの嫌な予感を抱いた。

サトウさんの塩対応とコーヒーの香り

「また何か変なの、届いてましたよ」サトウさんは手を止めずに言った。目も合わせないが、その言葉に私は机に置かれた封筒へ手を伸ばす。

中には登記申請書。依頼内容は名義変更。だが、添付された書類にしては妙に形式ばっていない。泣きながら書いた手紙のような申請理由だった。私の眉間に皺が寄るのを見て、サトウさんが一言。「どうせまた、ロクでもない家族の話ですよ」

白封筒に記された申請人の名

申請人は「タナカヒロユキ」。聞き覚えがある。確か昨年、自宅を父名義に戻したばかりの男だ。なぜまた名義を変更しようとしているのか。その父はまだ生きていたはずだ。

私は思わず過去の申請書類を引っ張り出す。去年の登記には、病床の父親の署名があった。しかし、それとは別の印影が、今回の申請書に押されている。不自然な“元気さ”を感じた。

登記申請書に隠された違和感

書類は一見整っているように見えた。だが、なにかが引っかかる。文体か、それとも印字のフォントか。いや、もっと根本的な違和感がある。登記理由の中に、明確な売買も贈与も書かれていない。

ただ「これまでありがとう」と書かれていた。まるで遺言のように。そしてその一文には、筆圧の強さが異常に表れていた。

日付が語る不在の理由

申請書の日付は三日前。だが、その日、父親である田中善一さんは入院していたはずだ。私は手帳を見返し、彼の病院から届いていた成年後見相談のメモを確認した。

善一さんはすでに会話もままならないと、息子自身が言っていた。その父が自筆で登記を申し出るなどあり得ない。いや、それを前提にした登記は受けられない。

涙では濡れない紙の上の歪み

私は紙を透かして見た。インクがわずかに滲んでいる箇所がある。水か、汗か、涙か。けれど、明らかに書類に触れた液体の痕跡だった。

「感情が入ってるわりに、冷静すぎる字ですね」背後からサトウさんが呟く。「人って本当に泣いてるとき、こういう字、書けませんよ」

依頼人の嘘と家族の真実

私はタナカヒロユキに電話をかけた。彼は静かな声で「父がどうしても今のうちに…」と言葉を濁した。だが、その“どうしても”は誰のための言葉だったのか。

事情を聞くと、彼は遠慮がちに言った。「父は…もう長くないと医者に言われました。だから、生前に全て整理をと」

口数の少ない老婦人の本音

私は病院に足を運んだ。病室で父親の看病をしていたのは、妻である老婦人だった。彼女は私の名刺を見て、しばらく沈黙した後、小さな声で言った。

「あの子、いろんな書類を持ってきて…お父さんの印鑑も、勝手に…」その一言が、全てを物語っていた。意図的な偽造ではない。だが、確実に動機があった。

息子の遺産にまつわる沈黙

彼は家のローンに苦しみ、父名義の土地を担保に借り入れをしようとしていたのだろう。だが、正規の手続きをすれば、それは到底間に合わない。だから、“書いたことにした”。

私はもう一度、申請書を見つめた。そこにあるのは、親を思う気持ちというより、自分を守るための綻びだった。

現地調査という名の遠足

現地確認のために足を運んだ。遠出するのは久しぶりだったが、やはりスーツに革靴で砂利道はつらい。私は足を滑らせ、見事に尻もちをついた。

「やれやれ、、、これじゃサザエさんの波平さんですよ…」私は呟いたが、横で見ていたサトウさんは、くすりとも笑わなかった。

うっかり司法書士と崩れたスニーカー

靴のソールが剥がれ、私は現地を片足引きずりながら調査した。だが、そのおかげで、裏の畑の奥に隠された古い境界杭を見つけることができた。

何かを探すとき、うっかりが案外ヒントになることもある。そう思いながら、私は土を払い、杭の印を確認した。

サトウさんのひと言が全てを繋ぐ

「これ、コピーのインクが一部だけ違いますよ」事務所に戻ったサトウさんが、申請書のコピーに目を留めた。

それは本物の印鑑証明書ではなく、旧い別件の書類を流用していた証拠だった。私は彼の申請を即座に突き返す決断をした。

申請者の意図を覆す一枚の写し

後日、彼から一通の手紙が届いた。「ありがとう」の言葉とともに、自主的な申請撤回書が同封されていた。彼もまた、紙では隠しきれない後ろめたさを抱えていたのだろう。

「結局、書類には本音は書けないってことですね」そう言ってサトウさんは椅子を回す。私は頷きながら、自分の机に戻った。

結末と一杯の冷めた缶コーヒー

今日も缶コーヒーはぬるい。私は電子レンジで温める気にもなれず、それを片手にぼんやりと空を見上げた。

人生にはたくさんの申請がある。そしてたいていは、動機が曖昧で、理由が足りなくて、誰も本当のことを書かない。だが、それでも手を動かさねばならないのが我々の仕事だ。

罪にもならぬ涙の動機

誰も傷つけず、誰も得しない。その動機は、罪と呼ぶには弱すぎて、でも見逃すには哀しすぎた。

申請書に涙は写らない。だが、私はその跡を、今日も探してしまう。やれやれ、、、司法書士なんて仕事は、本当に向いていない。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。





私が独立の時からお世話になっている会社さんです↓