依頼は一通の恋文から
午前中の陽射しがぼんやりと事務所のカーテン越しに射し込んでいた。コーヒーの湯気を見つめていたところに、カラン、と控えめなベルの音。事務所の扉が開き、そこに立っていたのはひとりの若い女性だった。
「これ…見ていただけませんか?」と差し出されたのは、一通の古びた封筒。妙に丁寧な書体で、まるで時代劇に出てくるような文面だった。うっすらと香水の匂いまで漂ってきた。
宛名の筆跡に、どこか既視感があった。だが、どこで見たのかまでは思い出せない。俺はそれを静かに受け取り、サトウさんに目配せをした。
午前九時の訪問者
その女性――椎名ミユキと名乗った――は、十年ぶりに見つかった初恋の相手からの手紙だという。だが、問題は中身ではなく筆跡だった。「この手紙…あの人が書いたとは思えないんです」と、ミユキは眉をひそめた。
恋に効く手紙のはずが、不安しか呼び起こさないというのも珍しい。「偽筆かもしれません」と彼女が言った瞬間、俺の中で何かが引っかかった。司法書士をやっていると、こういう勘がよく働くようになる。
「一応、登記簿を調べてみるか」と口に出しながらも、内心では厄介な匂いを嗅ぎ取っていた。
古びた便箋に書かれた愛の言葉
手紙は美しい言葉で満ちていた。桜の咲くころに君を思い出す、とか、君の笑顔が今でも瞼に焼き付いている、とか。だがその美しさがかえって不自然に思えた。サトウさんが小声でつぶやいた。
「この人、こんなにポエミーでしたっけ?」
記録をひっくり返すと、確かに椎名の元交際相手は十年前に自筆で遺言書を書いていた。それと今回の手紙の筆跡が似ている。しかし、どこか微妙に違う。まるで誰かが“似せて書いた”かのように。
恋文に仕込まれた登記の罠
俺たちは彼女の話を聞きながら、不審な点に注目した。手紙の最後に書かれていた「会いに来てほしい場所」は、ある古びたアパートの一室だった。そこで何が起こるか、なんとなく嫌な予感がした。
登記簿を見ると、その部屋の所有権が数か月前に変更されていた。登記原因は「贈与」。そして、その受贈者が、問題の手紙の差出人となっている人物だった。
だが、その人物は、二年前に死亡届が出されていた。
依頼人の素性と隠された過去
「やれやれ、、、また死んだ人が出てきたよ」と俺がぼやくと、サトウさんがため息をひとつ。「サザエさん世界なら、次のコマで追いかけられてますよ」と冷静に返され、背中がぞわっとした。
調査を進めるうちに、ミユキの元交際相手が絵描きとして生計を立てていたこと、そして贋作騒ぎに巻き込まれていたことが判明した。どうやら、その件に絡んだ人間が、今回の一筆書きを利用して何かを企てている。
贋作の世界では、筆跡も商品になる。そして司法書士にとって筆跡は、遺言書や署名捺印と並ぶ「信」の象徴だ。
元画家という肩書きの嘘
俺たちが見つけた資料では、椎名の元交際相手は生前、多くの筆跡資料を提供していた。それは贋作対策のためだったが、逆にそれが“素材”として使われてしまった可能性が出てきた。
恋文の筆跡は、彼のものを模した“AI生成文字”のような不気味な一貫性を持っていた。誰かが緻密に書いた偽物。恋ではなく、偽装のための一筆だったのだ。
そして、その裏には、相続や遺贈を悪用した詐欺が潜んでいた。
遺言書と恋文の接点
問題の部屋には、古い遺言書と、もう一通の手紙が隠されていた。封筒には「本物はこちら」と書かれていた。その手紙の筆跡は、確かに本物の彼の筆跡だった。
つまり、最初にミユキに届いた恋文は、遺言を無効化するために誰かが偽造したもの。しかも、それを信じたミユキが、その部屋に入れば「侵入」扱いにできるよう細工されていた。
「恋に効くどころか、恋で殺されかけたな」と俺は呟いた。
やれやれ、、、巻き込まれたなあ
警察に通報し、資料を提出した。容疑者は贋作業界で知られる筆跡模倣のプロだった。彼は故人の“遺志”をねじ曲げ、自分の利益のために恋文を仕立て上げたのだった。
サトウさんは静かに言った。「恋と犯罪って紙一重なんですね」その通りだと思う。だが俺には恋の方が遠い。
やれやれ、、、また独りで残業か。
サトウさんの一言で締まる結末
事件が一段落し、事務所に静けさが戻った。俺がまたボヤき始めようとしたとき、サトウさんが言った。
「筆跡が語らなくても、人間は嘘つきますから」
俺はその言葉に、どこか救われた気がした。たとえ手紙が嘘でも、心の奥の想いまでは誰にも真似できない。
机に残った未提出の書類を見て、俺は黙って立ち上がった。やれやれ、、、本当の仕事は、ここからだ。