専門家であることが自分を縛る

専門家であることが自分を縛る

専門家という肩書きが重く感じる日々

司法書士という職業には「ちゃんとしている人」というイメージがついて回る。法律のプロであり、書類のミスは許されない、言葉一つも慎重であるべき――そんな無言の期待が、毎日じわじわと肩にのしかかってくる。確かに信頼されることは嬉しい。でも、その分、ちょっとした冗談も言いにくくなるし、「間違えても大丈夫」と言える環境ではなくなってしまう。気がつけば、専門家という肩書きが、自分の人間らしさを押し殺していた。

看板を出した瞬間から始まる「らしさ」の呪縛

事務所の名前を掲げたとき、なんとも言えない誇らしさと同時に、重たい責任感に襲われたのを覚えている。「あの先生に頼めば安心だ」と言われるのはありがたいけれど、それと引き換えに「間違えてはいけない」「完璧でいなければならない」という無言の圧力が常にある。たとえば昔、知り合いの葬儀に参列した際、ちょっと感情が乱れて涙をこぼしたら、「あんなに泣くなんて意外ですね」と言われた。専門家は感情を出してはいけないのか、と自問した瞬間だった。

ミスは許されないという恐怖感

書類の誤字、判子の押し間違い、期日の勘違い――どれも人間ならやりがちなミスだが、司法書士としては一つでもあれば信頼が揺らぐ。若い頃、一度だけ申請書の添付書類を一枚入れ忘れたことがある。その後の再提出の手続き、相手方への謝罪、そして何より自分自身への嫌悪感…。あのとき、「専門家なのに」と言われた一言が、何年経っても耳に残っている。完璧を求められる世界に、息が詰まるときがある。

相談される側のプレッシャーに押しつぶされそうになる

誰かの不安を受け止めることが仕事だ。でもそれが毎日何件も続くと、自分の中に余裕がなくなってくる。自分自身のことを誰にも相談できない、という孤独。ときどき、「先生だから何でも知ってるでしょ?」と無邪気に言われるが、その言葉がナイフのように刺さることもある。全部わかっているわけじゃない、だけどわかっているふりをしなきゃいけない。その繰り返しに、知らず知らず心がすり減っていく。

自由な発言ができなくなったとき

気軽にものを言えたあの頃が懐かしい。今では言葉を選ぶことが習慣になってしまい、言いたいことが口に出せないことも多い。ちょっとした雑談すら、「この発言で信頼を失わないだろうか」と考えてしまう。元野球部だった頃は、バカ話で盛り上がっていた仲間たちと、今はもう素直に話すことができない。専門家であるというだけで、冗談すらリスクになるのか。

SNSでも専門家らしくいろと言われる空気

SNSで発信しようとしても、どうしても「専門家らしさ」を意識してしまう。たとえば、ランチで食べたカレーの写真を載せても、「こんな投稿するなんて残念」と言われるのではと気になってしまう。以前、「今日は疲れた」とポストしただけで、「そんなこと書くと信用落ちますよ」と忠告された。信頼と引き換えに、普通の人間としての自由が失われていく。そのことに気づいてから、投稿ボタンを押す指が震えるようになった。

ちょっとした冗談すら躊躇するようになった自分

友人との会話の中で、軽いジョークを言っただけなのに、「司法書士がそんなこと言っちゃダメだよ」と笑われたことがある。悪気はないのはわかっている。でも、それを機に、場の空気を読んで黙るようになった。場を和ませようとしても、それが専門家としての品位に欠けると思われたら元も子もない。自分の言葉に自信が持てなくなり、どんどん会話が怖くなっていった。

人間らしさを置いてきた気がする

笑うこと、怒ること、迷うこと、泣くこと――人として当たり前の感情すら、自分に禁じてしまっているような感覚がある。ある日ふと鏡を見たら、そこに映っていたのは、感情の起伏が削ぎ落とされた顔。司法書士としての自分に慣れすぎて、人間としての自分をどこかに置いてきてしまったように感じた。専門家である以前に、ひとりの人間として、自分を取り戻したいという思いがこみ上げてきた。

プライベートと専門性の境界線

一人でいる時間が好きだったはずなのに、今ではその静けさが寂しさに変わる。仕事とプライベートの境界が曖昧で、気がつけば一日中「先生」と呼ばれたまま過ごしている。誰にも相談できず、自分のことを話すこともないまま、日が暮れていく。専門家としての顔を脱げないまま、孤独だけが積もっていく。

休日でも相談されてしまう違和感

地元で開業していると、休日でも「ちょっとだけ聞いてもいい?」と声をかけられることがある。スーパーのレジでも、コンビニの駐車場でも、プライベートは完全に失われている。仕事モードをオフにしたつもりでも、周囲はそうは見てくれない。断るのも申し訳なくて、結局そのままアドバイスをしてしまう。休日なのに心が休まらない原因はここにある。

地元ゆえに逃げ場がないという孤独感

東京だったら、少し歩けば誰も自分を知らない街角に出られる。でも田舎ではそうはいかない。どこに行っても「あの司法書士さん」であり続ける。飲みに行っても、散髪に行っても、病院に行っても、完全な「個人」にはなれない。だからこそ、何かあっても弱音を吐けずに、ただ一人で抱え込んでしまう。逃げ場がないのは、本当にしんどい。

誰とも話さずに終わる週末もある

事務員さんが休みの日、土曜日の事務所に一人でいると、電話も来ず、誰とも会話せずに終わる日がある。その静けさに、ホッとする部分もあるけれど、それ以上に「このままでいいのか?」という不安が顔を出す。気がつけば、何かを感じないように忙しさに逃げ込んでいた。でも、専門家である前に、自分自身の生活をちゃんと生きることのほうが大事なんじゃないかと思うようになった。

それでも専門家であることを選んだ理由

苦しいことも多い。でもこの仕事を通じて誰かの役に立てたとき、たしかに心の奥が温かくなる。頼りにされたとき、自分の言葉が誰かの支えになったとき、その瞬間だけは、肩書きの重さを忘れられる。自分を縛るものがあっても、それでもこの仕事を続けているのは、たぶん「ありがとう」の一言が、なによりの報酬だからだ。

弱さを見せてもいい専門家でありたい

強がることに疲れた今、ようやく「弱さを見せる勇気」も専門性の一部だと思えるようになってきた。失敗したっていい、知らないことがあってもいい。それを認めたうえで、誠実に向き合っていく。それができる専門家こそ、信頼されるのかもしれない。完璧じゃなくても、人として向き合える存在でいたいと、心から思う。

専門知識の向こうにある「人」を見たい

目の前にいるのは依頼人であると同時に、悩んでいる「人」だ。こちらが専門家であることにとらわれすぎて、その人の気持ちを受け止める余裕をなくしてはいけない。机の上の書類だけじゃなく、その奥にある人生の一部を丁寧に見つめたい。知識だけでは救えない場面があることを、何度も経験してきたからこそ、そう思う。

自分を縛らない働き方は本当にあるのか

「専門家だから」「司法書士だから」――そういう言葉に縛られすぎずに、自分らしく働ける方法を、今も模索している。誰かに頼られる一方で、自分も誰かに頼れる環境をつくりたい。いつか、「司法書士だけど、ただの人でもある」自分を許せるようになる日が来たらいい。そう願いながら、今日も静かな事務所でパソコンに向かっている。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。