仮処分の申し立ては突然に
それは梅雨明け間近の月曜の朝だった。事務所の扉がバンッと開いたかと思えば、スーツ姿の中年男性が駆け込んできた。「至急、仮処分の申し立てをお願いしたい」と言う彼の手には、封を切られたばかりの通知書が握られていた。
僕は一瞬で嫌な予感がした。仮処分の話は大体ややこしい。しかも朝イチでやってくる依頼人に限って、ロクなことがないのだ。となれば当然、僕の隣で書類整理をしていたサトウさんの手が止まる。
朝イチの来訪者と持参された一通の通知書
「登記名義が不正に移転されたので、仮に処分禁止を出してほしい」と彼は言った。しかし内容証明を見る限り、単なる不動産トラブルには見えない。「それだけのことなら、弁護士に頼んだ方がいいのでは?」という僕の問いに、彼は言いにくそうに言った。
「実は……相手は、元婚約者でして」──この瞬間、サトウさんの目が「はい、めんどくさいやつ」と言っていた。
内容証明に添えられた恋文の正体
書類の最後に、妙に情緒的な手紙が添えられていた。「君がいなければ、土地にも意味はない」などと書かれているが、法律的効力はゼロだ。これは恋の終焉か、それとも何かの策略か。僕は少しだけ好奇心を覚えた。
とはいえ、恋愛絡みの仮処分なんて、シャアのいないガンダムみたいなものだ。敵が見えなければ戦いようがない。
浮かび上がる二人の関係
仮処分を申し立てた依頼人、柴田という男は、地元でもそれなりに名の知れた不動産業者だった。相手の女性は同じ会社の経理担当、長年の婚約関係にあったというが、婚姻には至らず昨年別れたそうだ。
問題の土地は、その別れ話の直後に彼女の名義で移転されていた。「これは騙し取られたんだ!」と柴田は言うが、移転登記自体には法的な瑕疵は見当たらない。やれやれ、、、こじれた恋と登記ほど扱いにくいものはない。
登場する元婚約者と謎の名義変更
調査によれば、当該土地の贈与契約書がきちんと作成されていた。ただ、証人欄には同一筆跡と思しき名前が2つ。これは何かのサインだ。婚約者のほうにも弁護士がついており、「これは純粋な贈与であり、撤回はできない」と主張していた。
それにしても、贈与した直後に別れるとは、まるでキャッツアイのような鮮やかな引き際だ。
サトウさんの冷静な分析
「この契約書、変ですね」とサトウさんが言う。「筆跡は真似できますが、癖までは真似できません。これ、多分本人が両方書いたんじゃないですかね」──つまり、贈与契約は虚構か、少なくとも完全な同意のもとではない。
冷静にそう指摘するサトウさんは、まるで灰原哀のように無感情だ。まあ、僕に優しくされた記憶はほぼない。
土地と恋愛感情の危うい結びつき
「愛しているから贈った」という言葉ほど、裁判所で無意味なものはない。だが当人同士にとっては、それが全てだ。恋愛感情の残滓が、仮処分を求める動機になっていたとしたら……?
そう考えた時点で、これは純粋な民事の話ではなくなった気がした。
登記簿に現れた微細な違和感
登記簿を追っていたサトウさんが、ふと指差す。「この名義変更、日付が一日ずれてます。実際の署名はこの日じゃないかもしれません」──なんと、書類上の署名日付と登記申請日が合っていなかった。
虚偽の署名日付、つまり捏造の可能性が出てきた。あとは証明だ。
現地調査と消された証拠
僕とサトウさんは問題の土地を訪ねた。小さなアパートの一室で、もぬけの殻。だが机の奥に古びた指輪ケースが残っていた。中身は空だったが、そこには日付と名前が彫られていた。「愛は消えても、痕跡は残る」とでも言いたげに。
やれやれ、、、現場仕事は腰にくる。
元婚約者の住居跡に残る謎の指輪ケース
彫られていた日付は、問題の贈与契約よりも2週間後だった。これは重大な矛盾だ。贈与が終わっていたのなら、なぜその日付で指輪が作られていたのか?「贈与契約は後付けだったんですよ、たぶん」とサトウさんが言った。
全てのピースが、ようやく繋がりはじめた。
法廷では語られない真実
仮処分の審尋は、結局双方の代理人によって淡々と進められた。証拠は十分ではなかったが、こちらの主張に一定の説得力があったらしく、処分は認められた。だが、それ以上の争いにはならなかった。
依頼人の柴田はそれで満足げだったが、僕には釈然としないものが残った。
供述調書に書かれなかった最後の言葉
後日、元婚約者から封書が届いた。仮処分の決定に従うという一文とともに、「あなたは誰かに騙されたのではなく、自分に騙されただけです」と書かれていた。真実の愛は、法では証明できない。
──まるでサザエさんの最終回みたいな、モヤっとした幕引きだった。
恋と嘘の境界線を越えた瞬間
誰もが「正しい」と信じるものが、本当に正しいとは限らない。恋も、登記も、仮処分も。越えてはならない線が、時に愛によって曖昧になる。その瞬間を見届けることが、僕の仕事なのかもしれない。
やれやれ、、、やっぱり向いてないかもしれないな、こういうの。
結末と、それぞれの仮処分
最終的に土地は仮処分の対象となり、売却も移転もできなくなった。だがそれは、愛の清算ではなく、未練の整理だったのかもしれない。柴田は、何も言わずに事務所を後にした。
サトウさんは何か言いたげだったが、結局いつものように「お疲れさまでした」とだけ呟いた。
取り消された申立と残された指輪
その後、元婚約者が申立の一部を取り下げた。指輪は返されず、そのまま廃棄されたらしい。僕の手元には、調査報告書と、空っぽのケースだけが残った。
きっとそれでいいのだ。仮処分とは、決して終わらぬ感情を一時的に封じ込めるための制度なのだから。
サトウさんのひと言が全てを締める
「恋の仮処分は、永遠に解除されないんでしょうね」──その言葉は、妙に重たく響いた。僕は何も返せなかった。元野球部らしく、ただ無言でファウルボールを拾うように、報告書を閉じた。
次の依頼は、きっともっと単純な相続案件であってほしい。