プロローグ 名義の奥に潜む気配
雨の午前九時 登記相談に現れた女
ある雨の朝、事務所のドアが唐突に開いた。傘のしずくを払いながら入ってきたのは、どこか憂いを帯びた目をした女性だった。 細身のスーツと微かに香る香水、それに似つかわしくないほどボロボロの登記識別情報通知を差し出してきた。 「この土地の名義変更をお願いしたいんです」彼女はそう言ったが、その声には何か別の意味が潜んでいるように感じた。
所有権移転か愛の告白か
差し出された書類には、所有権移転登記申請書、贈与契約書、そして一枚の手紙。 内容を読むうちに違和感が膨らんだ。「愛しています。だからこの土地をあなたに残します」——そう記された手紙が契約書に添付されていたのだ。 まるで探偵漫画のワンシーン。こんな情熱的な贈与理由を法務局が受け入れるだろうか。
不可解な申請書のズレ
登記原因の欄に書かれた奇妙な文言
登記原因欄には「贈与(愛情による)」と記されていた。そんなの見たことがない。 条文には忠実なはずの司法書士の目にも、これは奇妙に映った。 「これは恋文じゃなくて、登記原因なんだけどな……」と小声でぼやくと、横から冷たい声が飛んだ。
添付書類に足りないもの
「贈与なら贈与契約書の他に、印鑑証明書も必要です。それがありません」サトウさんが静かに指摘した。 依頼人はぎこちなく笑い、「あの人、印鑑証明は出してくれなくて…」と答えた。 まるで恋人にフラれた直後に名義だけ押しつけられたような話だった。
彼女の名義にまつわる嘘
婚約者の存在と登記の矛盾
調査を進めるうちに、その“あの人”が彼女の元婚約者であり、最近他の女性と結婚していたことがわかった。 なのに土地だけは彼女に移転しようとしていた。その贈与契約は、正式なものだったのか?それとも情に流された戯れか? 「まるでサザエさんの波平が浮気してるみたいな話ですね」俺が呟くと、サトウさんが眉をひそめた。
偽装か正当か 法の狭間の情
恋愛と法務は相性が悪い。とりわけ名義を伴う恋など、ろくな結末を迎えない。 贈与か詐欺か、いや、感情の整理か未練の表現か。 「やれやれ、、、登記原因にハートマークでも描いてくれたら却下できるのにな」俺はため息まじりに書類を見つめた。
やれやれ、、、俺の出番か
元野球部司法書士の直感
俺の直感が告げていた。この案件、まだ何か隠されている。 所有者欄には婚約者の名前。登記申請書に押された印鑑は旧住所のままだ。 つまり、今現在その婚約者は正式な住民登録すら完了していない可能性がある。
サトウさんの冷静な検証
「この贈与契約、日付が不自然です。住所変更前に作成されています」 サトウさんが静かに、しかし確実に真実に近づいていた。 つまり、贈与契約は偽装され、日付が遡及されていたのだ。
真相に迫る登記簿謄本
住所変更の連鎖に潜む狙い
俺は法務局で登記簿を取得し、過去の異動履歴を追った。 すると婚約者は婚姻届提出直後に住所を移し、その直後に贈与契約を交わしていた。 つまりこれは、現配偶者に内緒での財産移転だった可能性が高い。
なぜその土地にこだわったのか
「彼はここでプロポーズしたんです」依頼人がぽつりと語った。 恋の記憶が詰まった土地。それを彼女は所有したかった。 だがそれは、法の上ではただの“所有権移転”に過ぎなかった。
明かされる過去の登記履歴
数年前の失恋と贈与契約
失恋の後に贈与。そのタイミングは、情ではなく計算に見えた。 もしかすると彼女は彼を許していたが、その愛を形に残したかったのかもしれない。 だが法はそんな心情に情けはかけない。
法務局に残されたもう一つの証拠
申請却下通知の写しが、法務局の記録に残っていた。 一度提出されたこの契約は、既に一度退けられていたのだ。 つまり彼女は、それを承知で再申請に来たことになる。
対決 書類の裏に潜む犯意
恋心を利用した名義変更
彼女の想いは純粋だったかもしれない。だが、その方法は危うかった。 虚偽の契約書、印鑑証明のない申請、捏造された住所。 それらはすべて、感情の名を借りた法の欺きだった。
依頼者の涙と沈黙
「もういいんです。あの人のものは、何もいりません」 彼女は書類を破り、静かに席を立った。 窓の外にはまだ雨が降っていた。春には遠い冷たい空だった。
結末 登記は心を映さない
サトウさんの一言に救われる
「登記は、愛の証明書じゃありませんから」サトウさんの言葉が、冷たいようでいて優しかった。 俺はうなずき、ぐしゃぐしゃになった申請書を静かにゴミ箱に落とした。 やれやれ、、、恋の処理も、登記簿の更新も、いつも俺の仕事だ。
今日も書類の山に埋もれて
あの女の涙も、想いも、記録には残らない。 登記簿に記されるのは、誰が“所有しているか”という事実だけだ。 それでも、俺たちは今日もまた、書類の真実と向き合っていく。