泣く登記簿と沈黙の印影
朝一番の相談者は誰だったか覚えていない
正直なところ、その日の朝に来た依頼者の顔はもう記憶に残っていない。事務所のカレンダーには「新規 登記相談」とだけ書かれていた。けれどその人が残していった書類だけは、今でも机の上に異様な存在感を放っている。
中身は不動産の権利証と印鑑証明、そして薄いファイルに綴じられた謄本のコピー。全てが揃っているようで、何かがおかしい気がしてならなかった。
不動産の権利証に潜む違和感
古びた権利証を手に取った瞬間、妙な引っかかりを覚えた。紙の感触、フォント、押印の位置。それらは確かに本物のように見えたが、司法書士の勘が告げていた。「これは一筋縄ではいかんぞ」と。
気になって、すぐに登記簿をオンラインで確認する。だが、表示された情報は意外なほど整っていた。表面的には、何の問題もないように見える。
サトウさんの視線が突き刺さる
「これ、どう思う?」と資料を机の向こうに投げると、サトウさんは一瞥して「違和感ありますね」とだけ言った。その鋭さに、思わず肩をすくめる。
彼女は無表情なまま、謄本の名前と日付を照らし合わせていた。彼女の目は確かだった。何かが、この登記にまつわる時間軸に食い違いを起こしている。
物件の履歴と名前が一致しない
登記簿の履歴を見ると、所有者の移転履歴に奇妙な空白があった。何も記載されていない五年間。しかも、その空白の前と後で、所有者の名前がわずかに異なっていた。
「表記揺れにしてはおかしいですね」とサトウさん。たとえば“渡辺”と“渡邊”のような違いではない。名字の読み方が完全に異なるのだ。
亡くなったはずの依頼人
市役所の除籍簿で確認を取ったところ、依頼人が十年前に死亡していることがわかった。では、あの書類は誰が持ってきたのか。しかも、委任状にはその依頼人の直筆らしき署名まである。
「まさかゴーストライターですか?」と冗談めかして言ったが、サトウさんは真顔だった。「それなら印鑑証明はどうやって?」と返されて、僕は口をつぐんだ。
やれやれそんなわけあるかと首をひねる
まるで『名探偵コナン』の事件に巻き込まれたようだ。偽造書類、死亡者の登記申請、そして不在の依頼人。まさか幽霊が不動産の相続をしようとしているのか。
「やれやれ、、、」と呟いてみたが、全然笑えなかった。こんなややこしい話に、付き合ってられるかと心で毒づく。
法務局で目にした奇妙な記録
直接法務局へ出向き、原本台帳を確認させてもらう。すると、ある移転登記の申請書が破棄済みの記録と共に見つかった。破棄理由は「印影の不一致」。
申請書の日付は、まさに依頼人が亡くなった年と一致していた。つまり、過去にも誰かがこの亡霊の名を使って登記を企てていたのだ。
旧所有者の戸籍を洗い出す
事件のカギを握るのは、亡くなった依頼人の兄だった。彼はずっと登記を自分のものにしようとしていた形跡があった。だが正式な相続手続きを経ておらず、証拠を残さないように画策していたようだ。
僕たちは戸籍謄本を取り寄せ、相続人をひとりひとり洗っていった。そこには、兄の名前すらなかった。
登記識別情報の行方
決定打になったのは、登記識別情報だった。依頼人が生前に発行を受けたものと、今回の申請書に添付された番号が一致していなかったのだ。
どうやら兄は、旧い権利証と印鑑証明を何かの手段で入手し、そこに細工をして登記を進めようとしたようだ。
サトウさんの推理が空気を変える
「この印影、過去の申請書のものと一部一致しています」そう言って、彼女はルーペを差し出した。あまりに静かな声だったが、事務所の空気が一変した。
比べてみると、確かに印影のわずかな欠けが一致していた。それはまるで、キャッツアイが遺した痕跡のような繊細な証拠だった。
古い筆跡が語る真実
筆跡鑑定の専門家にも協力を仰いだ。結果は決定的だった。申請書の署名は、依頼人本人のものではない。兄が真似た偽筆だった。
それを裏付けるように、兄の自宅から依頼人名義のまま封印された預金通帳や、使われていない登記関係書類が見つかった。
眠っていた書類の束
それは押入れの奥に眠っていた。ホコリをかぶった段ボール箱の中には、遺産分割協議書の未完成原稿まであった。しかも内容は兄に都合の良いように歪められていた。
これらを司法警察に引き渡すことで、ようやく事件は動き出した。兄は事情聴取を受け、最終的に詐欺未遂で立件された。
事件の鍵は訂正印だった
決定的だったのは訂正印の形状だった。依頼人が使っていた印鑑は角印だったが、今回の書類に押されていたのは丸印。しかも訂正箇所にだけ使われていた。
司法書士として、印鑑の扱いに不自然さを感じ取れたのは、長年の経験のおかげだったかもしれない。
依頼者の涙と静かな夜
その日の夜、本物の相続人が事務所を訪れた。「兄が、そんなことをしていたなんて」と泣き崩れる彼女を見ながら、僕はため息をついた。
どこまで行っても、人間の欲にはキリがない。登記簿が物語を語るなら、きっと悲しみと欲望の話ばかりになるだろう。
シンドウが最後に見つけたもの
報酬は、たいして出なかった。だが、依頼者から渡された封筒には一通の手紙が入っていた。「助けてくれて、ありがとうございました」その一文に救われた気がした。
もう少し、頑張ってみるか。そう呟いて、僕はまた次の依頼書に目を通した。
登記簿が泣くとき正義もまた記される
紙の上の記録に、魂が宿ることはない。けれど、そこに誰かの正義が刻まれることはある。登記簿の亡霊が泣いた夜、ほんの少しだけ、僕も泣いた気がした。
やれやれ、、、これだから、司法書士はやめられない。