不穏な報酬依頼
奇妙な依頼人の登場
その日、事務所のドアが静かに開き、男がひとり入ってきた。スーツは上質だが、どこか泥くさい。身なりと所作のバランスが悪い人間は、えてして裏がある。サトウさんが軽く睨んだのを見て、私はすでに不安を覚えていた。
「登記をお願いしたいのですが」
名乗りもせず、男はそう切り出した。手には分厚い封筒。まるでドラマの中の賄賂のように、不自然なほど膨らんでいる。
封筒に詰められた札束
「これは…着手金ですか?」と問うと、男はうなずいた。「誰かに見られるのは困るので、書類の扱いは慎重にお願いします」
言い終える前に、彼のスマートフォンが鳴った。見る間に顔色が変わり、言葉を濁して退出してしまった。
置いて行った封筒の中には、現金三十万円が入っていた。だが、申請書はおろか、登記に必要な書類はひとつもない。ただの紙束と現金だけ。ますます怪しい。やれやれ、、、と思わず天井を見上げた。
サトウさんの違和感
依頼書の文言に潜む不自然さ
後に送られてきた依頼書は一見普通だった。「所有権移転登記の申請を依頼します」——だが、住所の一部が旧字体になっており、明らかに改ざんの痕跡がある。サトウさんが拡大コピーを持って来てくれた。
「ここの『区』の字、フォントが違いますよ」そう指摘するサトウさんの表情は、まるで波平に理不尽な命令を下されたマスオさんを見るような冷たさだった。
司法書士としての職務の限界
「我々は真実を確認する立場にはない、提出された書類の形式を確認するだけだ」
それは建前だ。だが、見て見ぬふりをすれば、法の番人である職責に泥を塗る。「調べていいか?」と聞くと、サトウさんは小さくうなずいた。
そのとき私は、元野球部だったことを思い出していた。キャッチャーが出したサインは「変化球」。つまりこれはストレートで攻めるべき案件ではない。
深夜の事務所と一通の手紙
差出人不明の警告状
夜、残業していると、ポストに無記名の封筒が差し込まれていた。中には手書きのメモ。「その登記は殺人と関係がある」
直筆の乱れた文字に、私の背筋は冷たくなった。だがどこか芝居がかっていた。
怪盗キッドのような軽妙さすら漂う文体に、あの依頼人の素性への疑念が増した。ひょっとして、これは何かの「演出」なのではないか。
誰かが私を監視している
帰宅途中、背後に黒い車がぴたりとついてくるのを感じた。住宅街の角を曲がっても、信号で止まっても、常にぴたりと。
振り返っても相手の顔は見えない。そんな中、ふと気づく。あの依頼人が名乗った名前、登記簿にまったく記録がなかった。架空名義だ。私は急いでスマホで登記簿謄本を取り寄せた。
報酬の出どころ
預金口座に振り込まれた多額の金
翌日、私の事務所口座に謎の振込があった。名義は「トクメイ」——そのまんまだ。これはもうサザエさんのオープニングで波平が転ぶレベルの露骨さだ。
登記の依頼人が故人なら、誰が金を振り込んだのか。私は地元銀行に問い合わせ、振込元の支店と時間を特定した。
依頼人の過去を追う
支店の防犯カメラ映像に映っていたのは、あの依頼人だった。だが、それは「三日前に死亡していた」はずの男の姿。戸籍上も死亡が確認されている。
つまり、この男は「死亡した誰かになりすましていた」ことになる。そしてその死を、誰かが故意に利用して登記を操作しようとしていた。悪意のある二重構造だった。
真夜中の訪問者
依頼人はすでに死亡していた
ついに現れたのは、別の男だった。かつての依頼人の弟。彼は震える声で語った。「兄は3か月前に事故で死んだ。けど…誰かが兄になりすまして遺産を奪おうとしてる」
そのとき、私の脳裏にひとつの可能性が浮かんだ。「登記によって財産を移すのではなく、登記そのものを“演出”として利用する犯人がいる」と。
やれやれとつぶやいた夜
すべてを繋げたのは登記簿だった
実際には登記はされていなかった。あの封筒は、登記が完了したように見せかけるための小道具だったのだ。報酬も口座も、すべては「登記されたと思わせるための舞台装置」。
犯人は登記された事実を偽造し、それを根拠に相続人を脅し、土地を安く買いたたこうとしていた。金と命を天秤にかける、最低の犯罪だ。
やれやれ、、、司法書士も探偵まがいの仕事が増えてきたなと、私はコーヒーを一口すすった。
結末と報酬の意味
死と引き換えに得たもの
犯人は逮捕された。証拠となったのは、サトウさんが見抜いた「文字の違和感」。それが始まりだった。登記は真実を映す鏡だ。だが、その鏡を曇らせようとする者は後を絶たない。
報酬三十万円は警察に提出された。私は何も得なかった。ただし、正義感というやつが少しだけ満たされたような気がした。サトウさんが、ほんの少しだけ口元を緩めたのを見て、少しだけ救われた。