境界の内と外

境界の内と外

朝の電話と依頼の予感

朝一番、まだコーヒーも淹れていないうちに電話が鳴った。受話器を取ると、いつものように土地の相談——ではなく、いささか陰鬱な声で「筆界未定の件で相談が」ときた。眠気が一気に吹き飛んだ。嫌な予感がしたのだ。
依頼人は隣家と筆界でもめているらしい。しかも「測量士ではなく、司法書士に頼みたい」と言ってくるあたりが、何かを隠している証だ。

筆界未定という言葉の重さ

筆界未定。それは「どこが自分の土地なのか、もはや誰にも分かりません」という宣言だ。書類にも、地図にも、登記簿にも書かれていないということは、要するに「みんなで見て見ぬふりをしていた」歴史の結果である。
それが今、誰かの悪意によって動かされようとしているとしたら、面倒な話になるのは明白だ。
やれやれ、、、久々に胃薬の出番だな。

現地調査と無言の隣人

午後、サトウさんと一緒に現地へ向かった。晴れ渡る空とは裏腹に、空き地の周囲はピリピリしていた。依頼人の家と、隣家の間に何やら張り詰めた空気がある。
地面には杭があるような、ないような。明確な線が引かれていないのに、人の心はすでに線を越えていた。
「測量の杭、見つからないですね」とサトウさん。はい、出ました。案件決定。

記録にない境界標

「ここに杭があったはずなんです」と依頼人は言う。しかし公図にも、地積測量図にも記載はない。
そういうときに限って、境界標っぽい石や木片が転がっているから困る。過去の誰かが「なんとなく」置いた物を、現代の人間が「絶対」だと思い込む。
まるで、サザエさんのタラちゃんが「ぼく、ここ通っていい?」と許可なく線を越えるようなものだ。

依頼人の本音と建前

「別に揉めたいわけじゃないんですよ」と依頼人は言うが、表情は真逆を語っていた。
「ただ、ウチの敷地が減るのは納得いかなくて」——それが本音なのだろう。筆界未定の状態は、不安を肥大化させる。
誰も正確に線を知らないのに、全員が自分の主張だけは正しいと思っている。

境界線よりも大事なもの

「土地の線より大事なもの、あると思うんですけど」とサトウさんがつぶやく。彼女にしては珍しい感情的な一言だ。
僕は聞き返さず、ただ小さく頷いた。線よりも人の関係が大切だとわかっていても、それを口に出すのは難しい。
法は明確でも、心の境界は曖昧だ。

昔の測量と今の心のずれ

役所で古い図面を確認すると、二十年前に一度だけ測量された形跡があった。けれど、それ以降更新はない。
当時の測量士はすでに故人。証言は得られない。だが、その測量図にだけ描かれた細い線が、すべての鍵を握っている気がした。
僕はその図面のコピーを持って再び現地へ向かった。

小さな杭と大きな誤解

現地に戻ると、足元に微かに見える鉄の杭があった。それは土に埋もれていたが、確かに測量図と一致していた。
しかしその杭は、依頼人の言っていた場所より三十センチほどずれていた。
誤差といえばそれまでだが、三十センチは心理的には「侵略」に等しい。

隣地の住人の失踪

ここで思わぬ事態が起きた。隣家の住人が突如として失踪したというのだ。
依頼人によれば、「元から変わり者だったが、最近妙に神経質だった」とのこと。
争いを避けるどころか、何かを恐れていたのかもしれない。

留守の家に残された手帳

鍵のかかっていない勝手口から中に入ると、そこには手帳が一冊、机の上に開かれていた。
「筆界を超えてはならぬ」——そんな走り書きが最終ページに書かれていた。
まるで何かから逃げるように去ったのだろうか。

登記と感情のずれた距離

法務局で調べた登記簿に、その隣家の土地の所有者は「姪」に移転されていた。
だが、依頼人はそんな話は聞いていないと言う。つまり、誰かが勝手に境界を決め、勝手に相続を進めていた可能性がある。
やれやれ、、、相続と筆界の組み合わせは、胃にも脳にも悪い。

心の距離と筆界の距離

依頼人と隣人の間には、法的な筆界以上に「心の距離」が広がっていた。
その距離が誤解と疑念を生み、土地を線引きするよりも人を分断していたのだ。
線より人が先に壊れてしまうこと、それがこの事件の本質だった。

解決の糸口は写真の中に

古いアルバムに、隣地でバーベキューをする写真があった。そこにはかつての杭が写っていた。
その位置と、現在の杭の位置を照合したとき、すべてのパズルがはまった。
筆界は、誰かの意図で動かされていたわけではなく、ただ失われていただけだった。

ドローンが捉えた過去の杭

登記には記録されていない杭を、ドローンによる空撮と過去の写真で一致させたことで、法務局も立会いを認めた。
境界は、ようやく「筆界未定」から「確定」へと進むことになる。
その一歩は、機械ではなく、紙でもなく、思い出によって切り開かれた。

筆界調査委員の証言

最後の一手は、かつて筆界調査委員を務めていた老司法書士の証言だった。
「境界なんて、人が決めるんじゃなくて、争わないように保つのが大事なんだよ」
その言葉が、依頼人の頑なな表情を少しだけ和らげた。

真実を語るのは誰か

土地は何も語らない。ただ、そこに住む人間が、自分たちの思惑で線を引き、塗り替える。
だがその線の外にある記憶や絆が、真実を照らすこともある。
サザエさんの波平が言うように、「カッカせず、静かに話せば良い」のだ。

暴かれた偽装と動機

隣人の失踪は、実は相続トラブルから逃げるための偽装だった。姪に名義を移し、筆界不明を利用して土地を広げるつもりだったようだ。
しかしその計画は、杭と写真と証言によって崩れた。
偽装されたのは筆界だけではなく、心もだったのかもしれない。

筆界に隠された遺産相続

遺言書もなく、家庭裁判所に調停も出さず、土地の名義だけを移した姑息な方法。
しかし、真実は線の向こう側からやってきた。
不確かなものを土台にしても、結局は崩れてしまうのだ。

心の境界を越えるとき

事件が落ち着いた帰り道、サトウさんがぽつりと言った。「結局、人が線を引いて、人が壊すんですね」。
僕は黙って頷きながら、事務所の自動ドアをくぐった。なんだかんだで、今日も無事に終わった。
線の内側に戻ってきた安心感と、外に踏み出す勇気。両方を胸に感じながら。

サトウさんの静かな微笑

「お疲れ様でした」とサトウさんが、珍しく笑った気がした。それだけで、なんだか救われた気分になった。
やれやれ、、、明日は筆界と関係ない相談が来るといいんだが。
それでも僕は、また線を探しに行くのだ。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。





私が独立の時からお世話になっている会社さんです↓