契約書の山に潜む違和感
夕方の陽が傾く頃、事務所に中年男性がふらりと現れた。手には封筒を持ち、「一度目を通してほしい」とだけ言って帰っていった。中身は分厚い契約書で、妙に整っているが、どこか引っかかる。
紙質は良く、印刷も完璧。だが、開いてみると、ページごとに異様な数の押印がある。三つも四つも、同じ人物の印影が重なるように押されていた。
「なんか、これ気持ち悪いですね」とサトウさんがぽつりと言った。それが全ての始まりだった。
午前中の来客と一通の封筒
その男は物腰は柔らかいが、やけに目を合わせない。「この契約書、登記に使いたいんです」と低く言った声が、どこか怯えていた。サザエさんの波平が書類に目を通すときのような、緊張感が漂っていた。
封筒は新しいが、差出人欄は空白だった。サトウさんが一瞥して、「この手のやつ、なんかありそうですね」と言い放つ。
自分はと言えば、朝からのオンライン申請がうまくいかず、胃が痛い状態でのスタートだった。
押印の異常に気づいた瞬間
一通目の契約書には、甲乙両者の名前が記載され、それぞれが複数ページにわたって印を押している。だが、サトウさんの目がすぐさま鋭く動いた。「このページ、押す必要ないはずですよ?」
たしかに、契約の効力には関係のないページにも丁寧に押されていた。まるで印を「数」でごまかそうとしているかのように。
自分もそこを指摘されて、ようやく気づく。「これ、押しすぎて逆に怪しいな」と思った。
捺印されたページの不自然な並び
契約の内容は通常の売買契約だが、押印されている位置がまちまちだった。あたかも、押す人がページ順を把握していないようにも見える。
しかも、3ページ目と5ページ目の印影は、角度も微妙に違っていた。サトウさんが「別人が押したかもしれませんね」とつぶやく。
印鑑そのものが本物でも、押した人間が本物とは限らない。そう気づいた瞬間、ぞくっと寒気がした。
依頼人の言葉と食い違う証言
「全部、自分が確認して押しました」と依頼人は言った。だが、筆跡と印影の位置を見ていると、どうも腑に落ちない。
一方で、契約書の相手方にあたる人物にも連絡をとってみた。すると、「契約?そんなの結んだ覚えはない」と即答が返ってくる。
サトウさんが、デスクを軽く叩いた。「やっぱり、偽造ですね。しかも下手なやつ」──そう言って、笑わない顔で不気味に微笑んだ。
依頼人の口ごもりと沈黙
こちらから問い詰めると、依頼人は「記憶が曖昧でして」と繰り返すばかり。明らかに狼狽している様子だった。
「やれやれ、、、昼飯もまだなのに」と自分がこぼすと、サトウさんは「この時間に弁当食べるのやめてくださいよ、臭いんで」と塩対応を重ねる。
しかし、依頼人の挙動不審はもう見逃せない段階に来ていた。
旧友の司法書士からの警告
かつて同じ研修で汗を流した、今は都内で開業している司法書士から電話があった。「最近、地方で押印の偽造が流行ってるらしい」と耳打ちされた。
それはまるで、名探偵コナンの世界で情報屋がさりげなく真相を告げるような空気だった。
「誰かに頼まれて押してるだけってケースもあるから、気をつけろよ」と言われ、自分の背筋に緊張が走った。
似たような押印トラブルの記憶
その旧友が言っていた別件では、印影は本物なのに、契約相手が全くの無関係というケースがあったという。
「どうしてそんなことを?」と当時は思ったが、今回も似たような気配が濃厚だった。
押しすぎた印影。それはまるで、嘘を隠すための過剰な演出にしか見えなくなっていた。
決定的な証拠を探して
サトウさんが印鑑証明書を取り寄せると、そこに記載されている印影と契約書上のものが微妙にずれていた。
しかも、複数の印影のうち、一つだけ向きが90度傾いていた。「利き手が違う人が押したかもしれませんね」と冷静に言うサトウさん。
「それ、漫画とかでしか見ない展開じゃん」と内心ツッコミながら、自分は現実の異常さに鳥肌を覚えていた。
印鑑登録証の盲点
依頼人が提出した印鑑登録証自体は確かに有効なものだった。だが、発行日が1週間前で、内容は「改印」だった。
つまり、古い印鑑で押されている契約書は、無効の可能性がある。これにより、契約全体が白紙に戻る危険性が出てきた。
依頼人の顔から血の気が引いていく。サトウさんは、それを冷めた目で見つめていた。
サトウさんの推理と行動
「契約書のデータ、パソコンに残ってました」とサトウさんが言って、自分のパソコンの操作ログを見せてくれた。
そこには、印影を切り貼りしたPDFの履歴が残っていた。依頼人が持ち込んだ契約書は、サンプルを流用して作られたものである可能性が高まった。
「パソコンって正直ですよね」と言いながら、淡々と証拠を積み上げるサトウさん。自分はもう口を挟めなかった。
役所の記録が示す矛盾
最終的に、役所に保管されていた契約履歴と照合したところ、日付も内容も異なっていた。つまり、依頼人が出したものは全く別の書類だったのだ。
これにより、依頼人は虚偽書類の作成と提出未遂の疑いで、正式に警察に通報されることとなった。
事件は終わった──かに見えた。
事件の終わりと事務所の日常
依頼人が連れて行かれたあと、事務所に静けさが戻る。サトウさんはコーヒーを淹れながら「こういうの、最近多いですよ」と言った。
「やれやれ、、、ほんと、ハンコって罪深いね」とつぶやくと、サトウさんは「それ、どこかの回覧板で言ってましたよ」とあっさり返す。
今日もまた、普通の一日が始まる。だが、自分の中で何かが少しだけ、変わった気がした。