朝の訪問者
玄関先の不機嫌そうな男
肌寒い朝だった。まだ暖房のスイッチを入れるには早いと感じながら、私は机に向かっていた。インターホンが鳴り、玄関に出ると、分厚い封筒を手にした中年の男が不機嫌そうに立っていた。 「実印が偽物なんです」と唐突に口を開いた彼は、封筒の中から登記完了証や登記識別情報通知書を取り出して見せた。
実印を巡る不可解な相談
彼の話は要領を得なかったが、要するに、不動産を売ったあとで自分の実印が使われていたのに、それが自分のものではないという。 「じゃああなたはこの売買契約書に押印してないんですか?」と尋ねると、「してない」と即答された。 やれやれ、、、またやっかいな話が舞い込んできたもんだ。
朱肉に潜む影
印鑑証明との微妙なズレ
登記識別情報に添付されていた印鑑証明書は、確かに彼のものだった。だが、契約書に押された実印と照合すると、わずかに影のにじみ方が違っていた。 「これは朱肉の付き方ですね」とサトウさんが言う。 私が気づかない細かい部分を、彼女は冷静に見抜いていた。
サトウさんの冷静な指摘
「普通、押印する際は一回で押します。でもこれは、上下にかすかにズレてます。誰かが真似て押したか、あるいは印影を偽造した可能性がありますね」 サトウさんは、手元のルーペでじっと印影を眺めている。 その目はまるで、怪盗キッドの変装を見破るコナンのように鋭かった。
所有権移転登記の謎
依頼人は本当に売主か
登記簿を見ると、確かに彼の名前から買主の名義に変わっている。しかし、その売主欄に記載された住所に違和感があった。 「この住所、いまの住民票と違うな……」とつぶやくと、サトウさんが「三年前の転居情報じゃないですか?」と食い気味に返してきた。 なるほど、名義変更の準備はその頃から始まっていた可能性がある。
登記原因証明情報に残されたヒント
登記原因証明情報には、売買契約日が記載されていた。その日付は、依頼人が入院していた期間と重なっている。 つまり、本人が印鑑を押すことは不可能なタイミングだった。 ここにきてようやく、事件の輪郭が見えてきた。
過去の登記簿が語るもの
三年前の名義変更の痕跡
私は法務局に赴き、過去の登記簿を調査した。すると、三年前に一度、所有権移転の申請が却下されていた履歴が見つかった。 理由は、登記原因が曖昧で補正が間に合わなかったとのこと。 誰かがその頃から仕込みを始めていたことは明白だった。
遺産分割協議書の不自然な筆跡
協議書の写しを見せてもらうと、署名欄の筆跡が不自然に整っていた。 「字がきれいすぎるんですよね……」と私が呟くと、サトウさんは「筆跡鑑定、出してみます?」とあっさり言った。 そう、たまには私にも名探偵らしいところを見せたいものだ。
やれやれ疲れる昼下がり
カップ麺と紙コップの静寂
事務所に戻ると、昼休み。お湯を注いだカップ麺と、紙コップのコーヒーが机の上に並ぶ。 静けさの中で、私は今日一日を振り返る。 やれやれ、、、休む間もない。
ふとした思いつきが事件を動かす
スープをすすりながら、あることを思い出した。 先ほどの契約書の裏に押された「確認印」には、なぜか同じズレがなかったのだ。 「つまり……裏表で使われた印鑑が違う?」私はスープを吹き出しかけた。
猫の印鑑と祖母の遺志
印影の真偽を暴く手段
彼の祖母が生前、猫の名前で口座を開いていたという話を聞いた。 そして猫の足跡印を押していたらしい。「押すたびに違ってて、楽しかったんですって」と依頼人は笑っていた。 私はふと、「生きた印影は毎回違う」という言葉を思い出した。
サザエさんのような一幕
話が終わると、サトウさんがぽつりと「それってつまり、偽印はいつも同じってことですよね」と言った。 「おお、波平さんの眉毛みたいだな」と返すと、「意味わかんないです」と冷たく切り返された。 やれやれ、、、ボケてもツッコミが返ってこない。
真犯人の正体
兄か妹かそれとも他人か
結局、印鑑を偽造していたのは、依頼人の妹だった。 「兄の財産は当然自分のものだと思ってたんでしょう」と警察が語った。 その思い込みが、朱肉の中に嘘を残したのだ。
サトウさんの罠と決め手の証拠
決め手は、サトウさんが密かに差し替えた朱肉だった。 妹が再度押印した際、微妙な朱肉の付き具合の違いが露呈し、偽印だと確定した。 「まあ、たまには司法書士事務所も探偵事務所みたいでいいですね」サトウさんはうっすら笑っていた。
静かに閉じる登記ファイル
訂正申請と刑事告発
偽造が発覚したことで、登記の更正申請が受理され、刑事告発もなされた。 依頼人はようやく、自分の不動産を取り戻すことができた。 司法書士の仕事は地味だが、こうして人の人生を守っているのだ。
やれやれ仕事が増えるなあ
「印鑑一つでこんなに手間かかるなんて……」私は天井を仰いだ。 すると、「これが仕事ですから」とサトウさん。 やれやれ、、、もう少し優しくされたいもんだ。
夕暮れの事務所
サトウさんの冷たい缶コーヒー
日が傾き、事務所に影が伸びる。 デスクの端に置かれた缶コーヒーを見つけた。「おつかれさま」と書かれた付箋付きだった。 「……やれやれ、ツンデレかよ」と思いつつ、口元がほころんだ。
印鑑の重みを噛みしめて
印鑑。それはただの物体ではない。意思と信頼と責任が押し込まれた、一つの証だった。 その重みに、今日も私は応えていく。 疲れた体を椅子に沈めながら、私はそっとファイルを閉じた。