登記相談の違和感
「仮登記の本登記をしたいんですけど」と、初老の女性が静かに語りかけてきた。声には迷いがなかったが、差し出された謄本を見た瞬間、胸の奥がざわついた。
登記名義人と依頼人の名字が違う。それだけなら珍しいことではないが、住所も生年月日も異なる。なにより違和感を覚えたのは、依頼人がそれを説明しようとしないことだった。
「どなたの名義ですか?」と訊ねても、「親戚です」としか言わない。それ以上のことは語らぬまま、女性は茶を一口すすった。
名義が一致しない不思議な依頼
謄本の名義人「石原信吾」は既に死亡していた。相続登記もなされていない。依頼人は「親戚」と言ったが、その親戚関係を証明する資料は提示されていない。
「戸籍類もこれから集める予定で……」と口ごもる依頼人。だがその様子は、なにかを隠しているように見えて仕方なかった。
私は机の下でそっと深いため息をついた。「めんどくさい匂いしかしないな……」
サトウさんの冷静な指摘
「先生、これ変ですよ」
その日の夕方、机の上に謄本を置いたままにしていたら、サトウさんがぼそりと言った。「この名義人、過去に別の詐欺事件で名前が出てます」
パソコンを操作しながら、新聞の電子アーカイブを見せてくれる。そこには、10年前に不動産詐欺で逮捕された「石原信吾」の記事があった。
古い謄本に刻まれた名前
昭和58年の登記。その時代のフォント、筆跡、そして独特の略語表記。司法書士として長くやってきた経験で、私は「違和感」の理由を理解し始めていた。
この仮登記、名義人の意思による登記にしてはあまりに雑で、不自然だ。特に仮登記原因が「贈与」となっていたのはひっかかった。
贈与で仮登記?普通はしない。なぜこの登記が通ったのか、それが次第に気になってきた。
怪しい訂正印の存在
記載ミスを訂正したらしい朱肉の跡が、仮登記欄ににじんでいた。訂正のしかたも素人くさい。司法書士の職印ではなく、個人印のようだ。
本当にこの仮登記は正当だったのか。私は法務局に足を運び、過去の受付帳を確認することにした。
昭和の記録を引っ張り出すのは手間だ。だが、それでも調べる価値はあると感じていた。
名義人の現在地はどこに
過去の住民票をたどっても、「石原信吾」の行方はつかめなかった。死亡届も出ておらず、戸籍は除籍されていない。
それどころか、昭和から平成への変わり目で住所が一度も移っていないという、不自然な記録が浮かび上がってきた。
「そもそもこの人、存在したんですかね」とサトウさんが呟く。うーむ、怪盗キッドのように、架空の存在だった可能性も出てきた。
消えた男と二つの住所
名義人の記載された住所には、すでにアパートも取り壊されており、存在しなかった。近隣の聞き込みでも、その名前を知る人はいない。
ただ、登記に使われた住所と一致する地番が別に存在しており、そこには現在も空き家が残されていた。
まるで「住所トリック」だ。サザエさんのカツオがテストの答案隠す場所のように、都合よく人の目を逃れている。
おかしな委任状
「これが仮登記の際に提出された委任状です」と、法務局職員が出してきたコピーを見て、思わず吹き出しそうになった。
筆跡が微妙に違う。複数人の手によって書かれた可能性が高い。そして、印影がぶれていた。
「これ、コピーを重ねて押したんでしょうね」とサトウさん。確かに。わざとズラして印を押すことで、真実をごまかす手口だ。
印影のズレと筆跡の謎
書面はまるで、漫画の一コマのように、登場人物の顔が変わっている。いや、むしろゴルゴ13のように、誰かが別人になりすましている可能性も。
「仮登記の時点で何かが仕組まれてたんだよ」と私は呟いた。
「え、いまさら気づいたんですか」とサトウさんが突っ込む。やれやれ、、、いつものことながら立場がない。
登記原因証明情報の罠
本登記の申請のために求められた登記原因証明情報。これを精査すると、さらに不思議な点が浮かび上がった。
贈与契約書が提出されていたのだが、日付の筆跡が違っていた。作成者の名前も微妙に違う。
「信吾」が「信五」になっている書類が一部紛れていた。これでは法的効力も怪しい。
税理士の証言の食い違い
契約書に関わったとされる税理士に連絡を取ってみたが、「そんな契約書は知らない」との返答だった。
署名も印鑑も無断で使われたのか。それとも存在しない税理士の名前を使っていたのか。
何か大きな嘘が、登記という形で塗り固められている。そんな気がしてきた。
現地調査で見えた事実
空き家のポストには、数ヶ月分のチラシとともに、一通の封書が挟まっていた。「仮登記に関する重要な書類」と赤文字で書かれていた。
中身は、誰かが司法書士宛に送ろうとしていた告発文だった。「私は石原信吾ではない」「使われただけだ」との走り書き。
筆跡は委任状のものと一致していた。つまり、この仮登記は最初から嘘で始まっていたのだ。
近隣住民の不自然な反応
聞き込みに応じた老人は、「あそこは昔から誰も住んどらんよ」と即答した。そして「たまにスーツの男が来てた」とも。
その人物の特徴は、依頼人にそっくりだった。つまり依頼人は「親戚」などではなく、最初から関係者として動いていたのだ。
サトウさんは小さく頷いた。「やっぱり、黒ですね」
解決の糸口は登記簿の余白に
最終的な決め手となったのは、登記簿の左端、余白に書かれた1行の走り書きだった。「依頼人立会いにて確認済み」
それは、登記官がかつて書き加えたメモだった。だが、当時の立会人の氏名が謄本には載っていない。
照会記録を調べると、その立会人が「山口静江」であることが判明。依頼人と同一人物だった。
昔の職員の癖を知る者の証言
かつてその登記を扱った職員がまだ在籍しており、私は面会を求めた。「あのときはね、なんかおかしいと思ったんだけど……」
その職員は、依頼人が立会人に化けていたことをほのめかした。「でも証拠がなかった。だから備考だけに書いたんだ」
私はその証言を録音した。これで、虚偽の仮登記の全貌が明らかになった。
サトウさんの推理と決着
依頼人は別人の名を騙り、仮登記を行い、後年になって本登記を装って財産を取得しようとしていた。
それにしても、よくここまで仕組んだものだと感心する。だが、紙と印鑑の世界で生きる者の目はごまかせない。
「やっぱり最後は書面ですね」とサトウさんが淡々と言った。さすがだ。
登記を利用した巧妙な遺産隠し
依頼人は、実は故人の元愛人であり、財産を密かに手に入れようとしていた。しかし、全ての仕掛けは法務局と司法書士の目に止まった。
私は、虚偽登記の疑いで刑事告発の手続きを進める準備に入った。
「やれやれ、、、たまには普通の登記がしたいよ」と思いつつ、書類一式を整える。
やれやれ今日もまた登記と嘘のはざまで
終わらない事実確認、戻らない昼飯、そして報われない正義感。だが、それが司法書士という職業なのだ。
事務所に戻ると、サトウさんは黙ってコーヒーを差し出してきた。「さすがに疲れましたか?」と。
私は軽く笑って答える。「まぁな。でもこれが俺の仕事だよ」
「次は普通の登記でお願いします」
サトウさんの目が冷たく光る。「先生、次は普通の登記でお願いします。今度こそ」
私はそっと目を閉じて、深くうなずいた。だが、心の中では思っている。次も、きっとまた何かが起こる。
司法書士の一日は、いつも静かに、そして劇的に終わるのだ。