専門家って言われてもこっちにも限界はあるんです

専門家って言われてもこっちにも限界はあるんです

専門家って言われてもこっちにも限界はあるんです

専門家という肩書きが重く感じるとき

専門家、司法書士、プロフェッショナル──どれも響きは悪くない。だけど、それが逆にプレッシャーになることもある。「専門家なんだから分かるでしょ?」と目の前の人に言われるたび、心の中では「いや、全部は分からんて」とつぶやいている。確かに法律に携わる資格を持っている以上、一定の知識はある。でも世の中は広いし、日々変化する。すべてを即答できるわけではない。そういうときに限って、期待は裏切れないという自負が、首を締めてくる。

「それくらい分かりますよね」と言われた瞬間の心の声

ある日、相談に来たお客さんに登記の手続きについて尋ねられたとき、「こういうのって、専門家なら分かりますよね?」とあっさり言われた。分かることもあるけれど、イレギュラーな事情が絡むと判断は難しい。でも「分かりません」と答えるとがっかりされるし、信頼も揺らぐ。だから口を濁す。こういう“分かって当然”という空気、しんどい。自分の中にある小さな違和感が、そのたびに少しずつ蓄積されていく。

全部が分かるわけじゃない それでも求められる責任

司法書士試験は確かに難しい。でも合格したからといって、すべてを網羅しているわけじゃない。実務で経験する中で初めて分かることも多いし、法改正で昨日の知識が今日には通用しないこともある。それでも「専門家なんでしょ?」と詰められる。昔の自分が、そんな態度を取っていなかったかと振り返っては、自戒もする。でも、理不尽だと思う気持ちも、なくならない。

司法書士だからこそ逃げ場がない現場

独立してからというもの、良いこともあったけれど、孤独も増えた。誰かにすぐ頼れる環境ではなく、自分で判断して、自分で動く。責任の矢印は、すべて自分に向いてくる。事務員がいるとはいえ、こちらの負担が軽くなるわけじゃない。むしろ、「ちゃんとしなきゃ」という思いが強くなって、逆に肩が重くなった気がする。

事務員も頼りたいけど頼れない日々

今、一緒に働いている事務員さんはよくやってくれている。でも「この件、お願いできますか?」と頼むにも、法的な判断が絡むとこちらの責任。事務員さんに任せてトラブルになったら……と考えると、結局自分でやるしかなくなる。昼食もそこそこに、書類とにらめっこしていると、「何してんだろうな俺」って気持ちになる。

「それ私がやっていいんですか?」の圧

以前、ちょっと込み入った書類作成を手伝ってもらおうとしたら、「これ、私がやっていいんですか?」と聞かれた。その言葉の裏にある不安や責任のなすり合いに、こっちも言葉を詰まらせた。結局「いや、やっぱ俺がやるよ」と引き取る羽目に。人に任せることの難しさ、責任を預けることの怖さ、ひしひしと感じた。

自分で抱え込んでしまう性格も災いして

元野球部だったからか、「根性で乗り切れ」という思考が抜けない。無理してでもやりきろうとする。だけど年齢も重ねて、体は正直。疲れが抜けないし、集中力も落ちてきた。なのに、誰にも弱音を吐けない。事務員には心配かけたくないし、友人にも愚痴る機会は少ない。だから、こうやって文章にすることで、やっと少し気が紛れる。

地方ならではの“顔が見える”関係のプレッシャー

田舎は人と人との距離が近い。良くも悪くも、“あの司法書士さん”として見られている。スーパーに行けば依頼者とすれ違うし、飲み屋に行けば「今ちょっと相談いいですか?」と声をかけられることもある。常に見られている気がして、休んだ気になれない。気軽に気を抜ける場所がないというのは、地味にこたえる。

専門知識の限界をどう受け入れるか

「司法書士ならなんでも知ってる」と思われがちだが、当然そんなことはない。だが、知らないことをどう扱うかは、自分次第。知らないことに直面したとき、以前は焦って調べまくっていた。でも最近は「知らないことは、知らない」と認めるようにしている。そうしないと、いつか潰れてしまう気がする。

勉強しても追いつかないスピード感

法律って、生きてるんだなと思う。次から次へと変わっていく。通達一つで実務がガラリと変わることもある。追いつこうと毎月の研修やセミナーを受けているけれど、それでもすぐ古くなる。完璧を目指せば目指すほど、自分が置いていかれている感覚になる。どこかで「完璧じゃなくてもいい」と思わなければ、苦しくなる一方だ。

法改正 通達 実務の現場のギャップ

法律上はOKでも、現場では「うちはこういう運用です」と突っぱねられることがある。法務局の担当者のクセや、地元の不文律みたいなものに悩まされることも少なくない。「こういう場合、どうすれば?」と問い合わせても、「それはご判断で」と返されてしまう。こっちだって判断に困ってるから聞いてるのに、と言いたくなる。

SNSでの他士業との比較に疲れる

最近はSNSで他の士業の人の発信を見ることが多い。輝いて見える人もいるけれど、自分と比べてしまって落ち込むこともある。「〇〇士の方が対応が早い」「〇〇先生はすぐ返事くれる」なんて声を見聞きするたび、自分の価値が下がったような気になる。比べても仕方ないと分かっていても、つい気にしてしまう自分がいる。

分からないことは分からないと言える勇気

勇気というと大げさかもしれないけど、「分からない」と言うのは案外むずかしい。専門家としてのプライドが邪魔をする。でも、それを越えて「調べてからご連絡します」と言えたとき、自分の中の緊張がふっとゆるむ。それで信頼を失うことはなかったし、むしろ「丁寧に調べてくれてありがとう」と言ってもらえた経験もある。

「分かって当然」が生む孤独と疲労

周囲の期待と、自分の限界。その狭間で揺れる毎日が続く。孤独と疲労が少しずつ蓄積していく感覚。でも、それを吐き出せる場所も、共感してもらえる場所も少ない。司法書士という職業の中で、そうした葛藤を共有できる人はまだまだ少ないように感じる。

相談者との温度差に消耗する日々

相談者は「このくらい聞いたらすぐ答えが返ってくる」と思っている。でも、こちらとしては状況を整理し、法的な観点から考慮しなければならない。それなのに、「ちょっと調べてくれれば済む話ですよね?」なんて言われると、グサッとくる。お金の話をするタイミングも難しく、つい後回しにしてしまい、後から後悔することも多い。

専門家なのに誰にも相談できない矛盾

「司法書士なんだから自分で何とかしなきゃ」──そんな思い込みが、自分をさらに追い詰める。仕事の悩みも、人間関係のことも、誰にも話せずに抱え込んでしまう。専門家として頼られる一方で、誰にも頼れない現実。この矛盾に、時々本当に嫌になる。相談する勇気も必要なんだろうけど、その一歩が遠い。

それでも続ける理由がある

辛いこともあるけれど、それでもやめないのは、やっぱり誰かの役に立てていると感じる瞬間があるから。たった一言の「助かりました」が、数日分の疲れを吹き飛ばしてくれることもある。自分の小さな仕事が、誰かの大きな一歩につながっている。そう思える瞬間が、かろうじて心を支えてくれる。

たまに届く「助かりました」の一言

先日、相続の手続きを終えたご家族から、手書きの手紙が届いた。「丁寧に対応していただいてありがとうございました」と。たった数行だけど、その言葉に救われた。SNSでの評価や外野の声ではなく、目の前の誰かの実感。それが一番の報酬だと思う。

元野球部的メンタルが意外と役に立つ

理不尽な上下関係、泥だらけのグラウンド、ひたすら走らされた夏。野球部での経験は無駄じゃなかったと思う。今になって、粘り強さや諦めの悪さが、日々の仕事の中で活きている気がする。とはいえ、そろそろ“気合い”だけじゃ乗り切れない年齢。でも、踏ん張れる理由があるうちは、もう少しやってみようと思う。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。