奇妙な始業の朝
朝のコーヒーを淹れ終えたところで、ふと机の上に目をやると、サトウさんの鞄がないことに気づいた。時計は8時50分を指している。普段なら8時45分にはデスクについているはずの彼女が、まだ来ていないのは珍しい。
「寝坊か? いや、あいつが寝坊するわけないよな……」ぼそりと呟きながら、湯気の立つマグカップを手に取る。不安を感じたまま、ひと口。
その瞬間、事務所のポストがバタンと音を立てた。
サトウさんの欠勤と不在の理由
届いた封筒には、病院名と役所の印。開封すると、簡潔に「死亡診断書」と書かれたコピーが同封されていた。記載された名前は——佐藤絵美、29歳、死亡確認日、昨日。
「は?」と思わず声が漏れた。なんの冗談だ。さっきまで彼女の湯飲みが机の上に置きっぱなしだったというのに。
悪い夢でも見ているのか。そう思った矢先、電話が鳴った。
郵便受けに届いた一通の封筒
電話の主は市役所の戸籍課だった。「ご遺族の手続きに関して、司法書士の貴所が関係者として登録されていました」とのことだった。遺族って、誰の?
宛名は間違いなくうちの事務所。そして添付されていた書類に記されていたのは、確かにサトウさんの氏名。生年月日も一致。
混乱しつつも、これは何かの手違いだろうと自分に言い聞かせた。……が、違っていた。
記録された死の報せ
午後、戸籍謄本を急ぎ取得した。死亡の記録は間違いなく役所に登録されている。そしてその日付は、つい昨日。
「ほんとに死んだのか、あいつ……?」書類の内容を何度も確認したが、やはりサトウ絵美は死亡していた。
となると、ここ数日、事務所で働いていた彼女は誰なのか。
住民票の除票と死亡の事実
住民票を確認したところ、除票が発行されていた。通常の死亡届が受理され、家族によって手続きが完了している。
だが、サトウさんには家族がいないと本人が言っていたはずだ。少なくとも、緊急連絡先に書かれていた番号は空白のままだった。
誰が彼女の死亡を届け出たのか。誰が彼女を二度目に殺そうとしているのか。
司法書士としての違和感
やれやれ、、、こんな事務処理のミスに巻き込まれるとは思わなかった。だが、これはただのミスでは済まない何かを孕んでいる。
過去に登記簿を改ざんしようとした依頼者の話を思い出した。不正な情報で他人の財産を奪おうとする者は、いつの時代もいる。
これは単なる「死」の手続きではなく、「誰か」が得をする構造の中で生まれた虚構の死かもしれない。
もう一人のサトウさん
かすかに覚えのあった旧戸籍の名前を思い出し、戸籍の附票を取り寄せた。すると、過去に一度改名された記録があった。
出生時の名前は「絵梨奈」。読みは同じだが、字が違う。数年前に家庭裁判所を通じて「絵美」へと改名されていた。
その改名の理由が、「精神的なトラウマからの脱却」とされていたのも気になった。
過去の戸籍に現れた同姓同名
さらに調査を進めると、驚くべき事実が判明した。サトウ絵美という名前の女性が、同じ県内にもう一人存在していた。
年齢も同じ、顔写真も酷似。双子かと思ったが、戸籍上は他人。まるで名探偵コナンに出てくる入れ替わりトリックのようだった。
もしかして、彼女は誰かと「人生」を交換していたのか?
旧姓が語る別の人生
出生地の役所に問い合わせた結果、幼少期に里親制度を利用して別の家に引き取られていた過去が浮かび上がった。
本当の名前、本当の家族、そして「もう一人の自分」。その痕跡はすべて、何者かが意図的に抹消したような形跡があった。
もはやこれは、ただの死亡届ミスなどではなかった。
怪しい依頼人の登場
翌日、突然事務所を訪れた男がいた。年齢は五十前後、スーツは高そうだが、手つきにはどこか胡散臭さが漂っていた。
「佐藤絵美の財産処理について、依頼したい」と男は言った。亡くなった彼女の親族を名乗るも、戸籍上は関係がないという。
この男が、真相の鍵を握っているに違いない。
財産処分を急ぐ謎の男
提示された資料は、すべて本物だった。委任状、通帳、死亡診断書。それらはすべて、佐藤絵美という一人の女性が亡くなったことを証明していた。
だが、その証明は誰のために仕組まれたのか。男の口から出る言葉に、真実はなかった。
「彼女は、もう帰ってこないんです。あなたもわかっているでしょう?」
口座凍結と解約請求の裏側
通帳の履歴には、最近になって急に振込や現金引き出しの形跡があった。まるで「死んだ後」の金の動きだ。
怪盗キッドのような大胆不敵さと、キャッツアイを思わせる巧妙な痕跡処理。これはただの犯罪ではない。計画された偽装死。
そう確信した瞬間、背筋に冷たいものが走った。
サトウさんは誰だったのか
調査が進むにつれ、ますます彼女の実態がわからなくなった。あのデスクで黙々と作業をしていた彼女は、果たして本物だったのか。
時折見せていた「遠くを見るような目」。何かを隠していたのは確かだ。
もしかすると、彼女自身もまた、誰かに人生を奪われた存在だったのかもしれない。
かつての被後見人との接点
過去の後見業務記録をあたると、一人の女性の名が浮かび上がった。「佐藤絵美、旧姓田村」。彼女は数年前に認知症の祖父を後見していた記録がある。
その祖父の死後、遺産をめぐって親族間で泥沼の争いがあり、裁判所も介入した。関係者の中には、件の謎の男の名前もあった。
「やれやれ、、、これは相当根が深いな」と思わず口にしていた。
戸籍の二重構造と改名の秘密
彼女は、別人の戸籍を乗っ取っていた。もしくは、乗っ取られていた。どちらかは今でも断言できない。
だが確かなのは、二度の「死」が存在し、そのどちらも彼女が望んだものではなかったということ。
それを覆すには、司法書士としての仕事では済まされない何かが必要だった。
やれやれ、、、終わらない後始末
警察に連絡を入れたものの、証拠不十分として受理されなかった。サトウさんは今も「死んだまま」だ。
事務所の机には、彼女の名刺と、使いかけのメモ帳がそのまま残っている。時折、カタカタというキーボードの音が聞こえたような気がする。
だが、今日も彼女の姿を見ることはなかった。ああ、本当に、、、やれやれ、、、だ。