表札の裏にある名前

表札の裏にある名前

朝一番の相談者

夏の暑さが本格化する朝、事務所のドアをノックしたのは、きちんとアイロンのかかったシャツに身を包んだ中年の女性だった。手には分厚いファイルと、一見して慣れていない様子のスーツケース。旅行ではなく、事情を抱えた人間の持ち物だ。

「家の名義について相談がありまして…」
第一声から、彼女の声はかすれていた。見た目以上に、心の中に複雑なものを抱えているのがわかる。私、シンドウの長年の勘がそう告げていた。

妙に緊張していた依頼人

名を聞くと、「アカネ」と名乗った。苗字は言わなかったが、こちらから求めると躊躇なく口にした。だが、その姓に既視感がある。土地の登記関係で何度か目にした記憶がかすかに蘇った。

「数年前に新築の家を買いまして…夫の名義で…」
そこで、アカネは一瞬言葉を止めた。「夫」という響きに、わずかな躊躇がにじんでいた。別れたのか、何かあったのか。その答えは、これから明らかになるだろう。

話がかみ合わない理由

彼女が差し出した登記事項証明書を見ると、所有者は「ツカモトユウジ」となっていた。だが、アカネの姓は異なる。しかも、最近の抹消登記の記録が妙に新しい。抵当権の抹消が行われている。

「ええ、それ私が払ったんです。でも…私の名前は、どこにも載っていないんですよ」
なるほど、問題の核心が見えた。名義は夫、支払いは妻。そして、その「元夫」は現在行方不明らしい。

名義と実体のズレ

「登記上の所有者が誰かと、実際にその家を管理している人間が誰かは、必ずしも一致しないんです」
私は言ったが、アカネの表情は晴れなかった。法律の言葉は冷たい。冷たすぎる。

「ツカモトさんとは、正式に離婚されましたか?」と尋ねると、彼女は小さくうなずいた。「でも、委任状が必要なんですか?」
ああ、やれやれ、、、こういうケース、意外と多いのだ。

登記簿に記された所有者

ツカモトユウジ。思い出した。この男、過去に複数の不動産を転売していた記録がある。中にはトラブルもあったようで、近隣の不動産屋の間でも「ちょっと危ない人」として知られていた。

「これ、放っておくとどうなるんでしょうか」
アカネの声がかすれる。私は苦笑しながら答えた。「サザエさんの波平のように怒鳴り込んでも、法務局は動いてくれませんよ」

住宅ローンと過去の債務

さらに詳しく聞くと、アカネは家のローンを完済していた。しかも、元夫とはほとんど連絡が取れず、既に所在不明扱いとのこと。となれば、相続登記のように家庭裁判所の手続きが必要になる可能性がある。

「相続じゃないのにそんな大げさな…」
アカネが戸惑うのも無理はない。だが、これが現実なのだ。

夫婦の間にある見えない契約

一見うまくいっている夫婦でも、不動産という現実的な資産を前にすると関係は変わる。私は彼女に婚姻中の財産分与や持分移転登記の概念を丁寧に説明した。

しかし、問題はそこではなかった。サトウさんが横からボソリと、「この委任状、字体が妙ですね」と言った。

別居中の妻からの電話

その直後、私の事務所に一本の電話が入った。「アカネと連絡がつかない。彼女が何か変なことをしていないか心配で」
声の主は、ツカモトユウジだった。驚いたことに、まだこの町にいたらしい。

私は彼に会うことを提案した。「事情を話したいので、直接会いませんか?」
そして、彼がやってきた時、私の中ですべてのピースがはまった。

代理権とその限界

提出されていた委任状は、やはり偽造されていた。アカネは、「自分の家を守るため」と言ったが、それは通らない。
ツカモトは静かに怒った。そして、こう続けた。「彼女に家を譲る気はありました。でも、手続きをすっ飛ばされたのは腹が立つ」

そこにあったのは、法と感情のズレ。善意と違法の狭間に立つ、人間の哀しさだった。

サトウさんの違和感

事務所に戻ったサトウさんが、表札をじっと見ていた。「これ、ネジが新しいですよ」
それはまるで、怪盗キッドが残していった手がかりのようだった。

確かに表札には「アカネ」と書かれていた。しかし裏側に、別の名前が薄く残っていたのだ。

ポストに届いた不審な郵便物

「これ、ツカモト宛の督促状です」
私はそれを見て眉をひそめた。つまり、彼はまだこの家を「自分のもの」として使っていたフシがある。どこかで借金を重ね、名義を残していたのだろう。

「まるでキャッツアイが去った後のアトリエみたいですね」とサトウさんがポツリ。妙な例えに、私は思わず笑ってしまった。

法務局からの連絡

翌日、法務局から連絡が入った。「あの件、抹消登記の申請者が違うかもしれません」
つまり、第三者が偽造して登記をいじっていた可能性がある。

そう、実はアカネですら知らないところで、誰かがこの家の名義を操作しようとしていたのだ。

抹消登記の謎

元の抵当権を抹消したのは、実は別人だった。その人物は不動産業者の下請けの司法書士。だが、その申請の依頼者の名が不自然だった。

やれやれ、、、またややこしい話になってきた。私は重たい腰を上げ、現地調査に出ることにした。

偽造された委任状

委任状には、古い印鑑が使われていた。しかも、印影が最近のものと微妙に違う。これは、かなり精巧に模倣された偽造文書だった。

私はそれを証拠として法務局に提出し、警察にも相談するよう依頼した。アカネの問題は、個人の名義の争いではなく、第三者による詐欺の可能性があったからだ。

やれやれという一言とともに

事件の核は、アカネでもツカモトでもなかった。表札の裏に隠された名前、それは架空の法人だった。

詐欺師が仕組んだ名義の乗っ取り。そして、それに巻き込まれた元夫婦。それぞれが、それぞれの後悔と怒りを抱えていた。

真実にたどり着くための一手

最終的に、私はサトウさんの提案で名義復旧の手続きを開始した。書類は多いし、時間もかかる。でも、それが正しい道だ。

「こういうのが本当の『家庭の問題』ってやつですね」
皮肉混じりのサトウさんの言葉に、私はただ一言返した。「やれやれ、、、だな」

最後に明かされる所有者の真意

ツカモトは、アカネにこう言った。「本当は君に譲るつもりだった。でも、君が急ぎすぎたんだ」
その言葉に、アカネは黙ってうなずいた。法律では救えない感情のやりとり。それもまた現実だ。

事件の後で

登記簿が修正され、すべてが終わった後、事務所には静けさが戻った。私は例によって、山のような書類に囲まれている。

それでも、ふと外を見ると、夏の陽射しが優しく差し込んでいた。ほんの少しだけ、この仕事が誇らしく思えた。

それぞれの未来に向けて

アカネは一人で暮らす道を選んだ。ツカモトは遠くの街に移った。表札は、もう彼らの名前ではなかった。

「司法書士ってのは、家を守る仕事でもあるんだな」
誰にともなく、私はつぶやいた。やれやれ、、、

表札の裏に記された新たな名前

新たに貼り替えられた表札には、まったく別の家族の名前が刻まれていた。かつての所有者たちの痕跡は、静かに消えていった。

それでも、私は知っている。あの家には、確かに人々の想いと争いと、そして再生があったことを。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。





私が独立の時からお世話になっている会社さんです↓