恋という名の登記原因

恋という名の登記原因

朝の事務所と一通の相談メール

八月の蒸し暑さが残る朝。クーラーの効きが悪いのか、俺のやる気が悪いのか。 デスクの上のモニターには、真新しい相談メールが一通だけ光っていた。 「恋人に家をあげたのですが、ちょっと不安で…」というタイトルで、差出人は佐々木杏子。どこにでもいそうな名前だった。

見知らぬ女性からの依頼

メールの文面は丁寧だった。自分が所有していた山間の別荘を、交際中の男性の名義に変更したとのこと。 「恋人を信じていましたが、最近連絡が取れず、登記原因を“贈与”にしたのが正しかったのか悩んでいます」 ——ときた。こりゃまた、恋愛沙汰の火種が司法書士の机に落ちてきたというわけか。

登記原因に書かれた違和感

ファイルを開いて登記簿を確認すると、確かに所有権移転の登記原因は“贈与”。 しかも日付がバレンタイン。こういうのはドラマだけにしてほしい。 気になったのは、添付書類にある認印のかすれ。あまりに粗雑で、まるで押したくなかったかのような署名だった。

恋を理由にした名義変更

俺の事務所には、遺産相続や債務整理の話は多いが、“恋”で不動産の所有権が移るなんて話は珍しい。 書類をもう一度、じっと眺める。だが、どこからどう見ても手続き上は問題ない。 問題は“気配”だ。何かが見落とされている気がしてならない。

サトウさんの冷静な分析

「シンドウ先生。贈与税の申告、してませんね。この女性」 サトウさんは、冷めたアイスコーヒーを口に含みながらパタパタとキーボードを叩いていた。 「ついでに言うと、この男、過去にも同じように別荘を手に入れてるみたいです。二度」 やれやれ、、、恋も登記も、繰り返せば事件になる。

依頼人の過去に迫る

佐々木杏子のSNSは鍵付きだが、過去の投稿にはそれらしき男と写った写真がいくつか残っていた。 「カズくんとの初旅行」などというキャプションが残るその写真は、どう見ても他の女性の投稿と同じ構図。 使い回しか、共犯か、あるいは、、、。

廃墟となった山間の別荘

現地に足を運んだ俺は、思わず息を呑んだ。別荘はすでに廃墟と化し、誰も住んだ形跡がなかった。 玄関の郵便受けには「不在のため持ち帰り」と記された郵便通知が3枚も入っていた。 裏口の鍵は壊されており、窓ガラスの一部も割れていた。

名義変更された不動産の行方

地元の不動産会社に話を聞くと、件の別荘はつい先日、売りに出されていたことがわかった。 だが、購入希望者が現れたとたん、突然売却がキャンセルされたという。 「名義人の男性から“事情が変わった”とだけ連絡があって、それっきりです」と、社員は首をかしげた。

登記簿の中の空白期間

登記簿には確かに“贈与”の文字が記されていたが、その前に仮登記が一つ入っていた。 それが抹消され、本登記に至るまでの間、妙な空白期間がある。 仮登記抹消の申請人は、贈与されたはずの男——これは完全に怪しい。

恋人か詐欺師か

「贈与に見せかけて、実は資産の洗浄かもしれませんね」 サトウさんの言葉は容赦ない。けれど鋭い。まるで本物の探偵のようだ。 俺は電話を手に取り、依頼人の佐々木杏子に面談を申し込むことにした。

二人の関係を追う

面談で明らかになったのは、杏子がその男に完全に惚れていたという事実だった。 「登記のことは、全部あの人に任せてたんです。私は、ただ名前を書いただけで…」 恋は盲目、というが、盲目すぎると法務局の敷居を超えてしまう。

法務局職員の証言

「ああ、その男、何度も来てましたよ」 法務局の窓口担当者が語ったのは、何かを急ぐように手続きを進めていた様子だったという証言。 書類もすべて揃っていたが、妙にせっかちで、確認を急がせる姿勢が印象的だったらしい。

登記に残された真実

やがて、名義変更の裏に隠されていたもう一つの事実が明らかになる。 男は“贈与”の形式を取りながら、裏でその物件に借入を担保にしていた。 つまり、恋を装った贈与は、単なる担保提供の道具だったというわけだ。

一通の手紙と一冊の通帳

杏子のもとに、男からの謝罪めいた手紙が届いたのは事件解決の直後だった。 中には、口座残高わずか一万円の通帳が一冊。 「これで勘弁してほしい」と書かれたその文字に、杏子は黙って通帳を閉じた。

そして浮かび上がる動機

男の動機は明白だった。愛ではなく、金。感情ではなく、計算。 だが、“恋”という名の登記原因は、法の力だけでは裁ききれない哀しみを含んでいた。 俺たちは、その中間に立つだけなのだ。

登記簿の裏にある告白

帰り道、車のラジオから流れる演歌がやけに沁みた。 俺はふと、自分が誰かの登記原因になったことがあっただろうかと考えたが、答えはなかった。 やれやれ、、、こっちは“恋”どころか、定期預金すら動いてないってのに。

私たち司法書士の役目とは

事務所に戻ると、サトウさんが無言で温かい缶コーヒーを机に置いた。 「おつかれさまです。次の相談、14時からです」その声は、どこかやさしかった。 今日もまた、人の想いと金と権利の交差点で、俺は書類とにらめっこするだけだ。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。





私が独立の時からお世話になっている会社さんです↓