朝一番の来訪者
事務所のドアが開いたのは、まだコーヒーの香りが立ち上っていた頃だった。
男は無言で椅子に腰を下ろすと、懐からくしゃくしゃになった登記事項証明書を取り出して机に置いた。
「この家、誰が住んでるんですかね?」とぼそり。そこには、売買の記録があるにもかかわらず、所有権移転の登記がなされていない空き家の情報が載っていた。
名乗らぬ依頼人
男は終始うつむいていた。名前を尋ねても、「それは関係ないでしょう」と口を濁す。
強い酒の匂いがわずかに漂い、袖口は煤けていた。
これはただの登記相談ではなさそうだと、僕の頭の中のサイレンが鳴り出す。
謎の登記簿と空き家
その家は、市街地から外れた丘の上の住宅街にあった。築40年、だが不自然なほど新しい窓ガラスとドアが後付けされていた。
登記簿上は10年前に移転登記がなされて以降、変更なし。にもかかわらず、固定資産税の通知は差出人不明で返送されていたという。
まるで誰かが住んでいるふりをして、しかし誰もいない。いや、逆か。誰もいないふりをして、実は——。
放置された住宅の記録
僕とサトウさんで、法務局へ出向いた。
閲覧室で古い登記簿を調べると、所有者の氏名はどれも仮名のように思えた。
しかも、その仮名は微妙に字体が違う。筆跡にも癖がなく、まるでロボットが書いたような均一さだった。
登記事項証明書に残された違和感
印影の欄に、なぜか「フジオカ」と書かれた名前の実印が残っていた。しかしその名前は、登記簿のどこにも出てこない。
司法書士の職業柄、こういう“消し忘れ”は見逃さない。
だが、この印影はどこからやってきたのか。ここに住んでいた誰かが意図的に残したものだとしたら?
転居届の無い住人
住民票を確認すると、この家の住所に転入してきた記録はあった。だが、転出の記録がなかった。
つまり、書類上ではまだその人物は「そこにいる」ことになっている。
でも実際には、誰も見たことがないという。まるでゴーストタウンの一戸建て版だ。
隣人の証言
昼下がり、僕は現地へ赴き、隣家のチャイムを押した。
年配の女性が出てきて言った。「あの家ねぇ、夜になると、たまに灯りがつくのよ。でも誰も入っていくのを見たことないの」
まるで怪談の出だしだ。僕は心の中で「やれやれ、、、」と呟いた。
二年前の騒音と奇妙な噂
女性の話では、二年前の秋、夜中に何度か怒鳴り声や物音が聞こえたらしい。
誰かがケンカしていた、というよりは、「誰かと誰かが別れを惜しんでいた」ような泣き声だったという。
その翌日を境に、家はピタリと沈黙した。まるで物語の幕が下りたかのように。
公図と境界の食い違い
公図を確認すると、登記されている敷地と現況の境界線にズレがあることが判明した。
あきらかに意図的に外構が敷地を越えて建てられていた。しかも、それはずっと以前からのようだ。
「境界トラブルですか」と言うと、サトウさんは「いや、これはカモフラージュですね」と冷たく言った。
図面と現地の不一致
建築確認申請時の図面と、実際の建物の形が微妙に違っていた。特に、裏手の勝手口の位置がずれている。
どうやら、裏口を使って誰かが出入りしていた形跡があるらしい。
玄関はただの飾り。出入りはすべて裏から。どこかの怪盗漫画を思い出す。
過去の分筆登記が語るもの
さらにさかのぼると、土地はかつて二筆に分かれていた。それが10年前に合筆されている。
その頃から空き家になったという話と一致していた。
合筆前の片方の土地には、名義が「フジオカ」となっていた記録があった——つまり、あの印影の人物だ。
サトウさんの推理
事務所に戻ると、サトウさんはパソコンをたたきながら言った。「この『フジオカ』、数年前に失踪届が出てます」
しかも、その届けを出したのは、今朝事務所に来た“名乗らぬ男”だった。
つまり彼は、失踪人を探していたのではなく、隠そうとしていたのかもしれない。
住所に隠された暗号
家の表札は無地だったが、ポストに貼られたステッカーにだけ「F102」と書かれていた。
F=フジオカ、102=10月2日。失踪届が出された日と一致する。
記念か、皮肉か。いずれにせよ、誰かが“記録”として残した痕跡だった。
司法書士の一手
僕は、土地の名義変更を停止させる仮処分申請の手続きを急いだ。
これ以上、証拠が隠されないように。
「まったく、推理は素人だけど、登記の手は抜かないんでね」と自分に言い聞かせる。
失踪者の真実と登記の罠
結局、「フジオカ」は偽名だった。男は戸籍を偽装し、過去の人間として“消える”準備をしていた。
あの家は、身元を隠した人間の避難所だった。誰かに追われていたのかもしれない。
依頼人は、最後まで本名を名乗らなかった。ただ一言「もういいんです」とだけ言い残して帰っていった。
そして誰も登記できなかった
結局、登記簿は更新されなかった。フジオカの名も、仮名のまま残り続ける。
幽霊のように残された家は、今日も誰も住まないまま、そこにある。
「サザエさんの家みたいに、いつまでも変わらないけど、誰も中身を見ようとしない」そんな不気味さを残して。