依頼人は交際届の相談に来た
八月の蒸し暑い午後。扇風機の音が頼りないリズムを刻む中、事務所の扉が静かに開いた。現れたのは、淡いワンピース姿の若い女性だった。手にした封筒を胸に抱くように持ち、少し戸惑いながらもはっきりとした声で言った。
「交際届って、司法書士さんに相談できることなんでしょうか?」
珍妙な相談に、俺は思わず麦茶を吹き出しそうになった。
サトウさんの冷たい一言から始まった
「交際届なんて法的に存在しませんよ」
サトウさんが冷静に言い放つ。彼女の声は氷のように鋭く、それだけで依頼人の肩が一瞬すくんだのが分かった。俺はそっと目を閉じ、サザエさんのカツオがやらかしたときの波平の顔を思い出した。
やれやれ、、、この空気をどう処理すればいいのか。
交際届は法的効力があるのか
依頼人の話によると、亡くなった交際相手の遺族が彼女の存在を否定しているという。婚姻関係でもなく、同棲の事実も曖昧。そのため彼女は「何か証明できる書類」を作ろうとしていたのだ。つまり、後付けの交際届を。
「それはちょっと、偽証になりかねませんよ」
俺は慎重に言葉を選びながら、彼女の目を覗き込んだ。
不穏な違和感を覚えた会話
彼女の説明は丁寧で、感情のこもった言葉も多かったが、どこかに作為的な匂いが漂っていた。まるで用意された台本を読み上げているような、不自然な流れがあった。
「彼と交際していた証拠は、他に何かありますか?」
「SNSのメッセージと、旅行先の写真が少しだけ……」
男の態度が不自然すぎた理由
故人の写真を見ると、女性との距離感が明らかに不自然だった。肩が触れないように立ち、目線も別の方向を向いている。その表情には笑顔すらなかった。
もしこれが「交際」だとするなら、あまりに無機質すぎる。
「これは…ちょっと変ですね」俺はつぶやいた。
交際の証明が必要な場面とは
相続や遺言に関わる証言者として名乗り出るには、故人と深い関係があったことを示す必要がある。だが、今のままでは彼女は「ただの知人」に過ぎない。
「遺言に、あなたの名前は書かれていませんでした」
静かに伝えると、彼女の手が小さく震えた。
司法書士の出番ではないはずだった
いつもなら、ここで「弁護士に相談してください」で終わる話だ。しかし今回は何か引っかかった。封筒の中にあったメモには、故人の直筆らしき走り書きがあった。「彼女には渡すな」と。
「このメモ、本当に本人の筆跡ですか?」
俺の中で何かが点と点でつながり始めた。
戸籍と住民票に現れた矛盾
調査を進めると、故人が一度も女性と同居していなかった事実が判明した。さらに住民票上の転居履歴も、彼女が語った内容と一致しない。
「どういうことですか?」と問い詰めると、彼女は黙り込んだ。
サトウさんがつぶやく。「この人、何か隠してますね」
やれやれ、、、これは事件の匂いがする
正直、俺の専門分野じゃない。だがこの手のズレには慣れている。野球部時代、バントのサインをフルスイングで台無しにしたあの頃を思い出す。
でも今回は、見過ごすわけにはいかない。
やれやれ、、、俺の盆休みが消えた音がした。
女の話が食い違っている
再度呼び出して問いただすと、彼女は泣きながら告白した。「私は彼の婚約者だと信じていました。でも実際には、彼には別の女性がいて……」
それは虚構の交際だった。彼女の中では本物でも、法的には幻に過ぎない。
「交際届を出せば、何か変わると思ったんです」
サザエさんの波平のように怒鳴りたくなった
「世の中な、証明できない気持ちのほうが多いんだよ!」
思わず波平みたいに怒鳴りそうになったが、俺は深呼吸して麦茶を飲んだ。これはもう、恋と法の狭間で溺れた哀しい嘘なのだ。
サトウさんがぼそり。「本当の愛は、登記簿にも残らないんですね」
彼女はなぜ届け出を避けたのか
嘘を貫くことでしか、彼との関係を守れなかったのだ。だからこそ、彼女は偽りの届出にすがった。それが自分の存在を証明する、最後の手段だったのだろう。
「交際届があったら、全部違って見えたんです」
その言葉が、妙に胸に残った。
真相は文書の裏にあった
届出は不要だった。ただ一枚のメモ、それこそが彼女を拒絶する最後の意思表示だった。だが、そのメモにはもう一枚、別の紙が重なっていた。
「もし彼女がこれを見ているなら、許してくれ」
そこには、まるで遺言のような、悲しい愛の証明があった。
交際届は愛の証明ではなかった
嘘だったかもしれない。けれど、その裏にあったものは、本当の気持ちだったのかもしれない。法はそれを認めないかもしれないが、人の心は別だ。
届けはなかったが、確かにそこに関係はあったのだ。
サトウさんが最後に言った。「恋愛って、契約より複雑ですね」
最後に活躍したのは誰か
結局、俺が書いたのは登記でも契約書でもなく、ひとつの報告書だった。そこに事実を淡々と記しただけ。でも、それだけでいい時もある。
「ありがとう」とだけ言い残し、彼女は封筒を抱いて事務所を出ていった。
俺は静かにため息をついた。やれやれ、、、やっぱり司法書士に休みはない。