逃げた名義は嘘をつく
朝イチの来訪者と怪しい委任状
午前9時を少し回った頃、事務所の扉が遠慮がちに開いた。入ってきたのは中年の男、身なりは悪くないが目が泳いでいる。提出された委任状には、どこか見覚えのある名義が記されていた。
「急ぎの案件でして、今日中に名義変更をお願いできれば…」と男は言う。こんなパターン、過去にも何度かあった。だが、今回の名義人は確か…死亡届が出ていたはずだ。
名義変更と書類の違和感
提出された書類は整っているように見えた。印鑑証明書も添付され、捺印も滞りない。ただ、シンドウには違和感が残った。氏名の漢字が微妙に違っている。旧字体と新字体が混ざっていたのだ。
「この証明書、最近取ったものですか?」と尋ねても、男は曖昧に頷くだけだった。疑念は確信に変わりつつあった。
依頼人の名前に記憶が引っかかる
サトウさんが机の上の登記簿謄本を覗き込み、「この名前、三年前に別の件で聞き覚えがあります」とつぶやいた。記憶力だけはサザエさんのタラちゃん並みに正確な彼女が言うのだから間違いない。
調べてみると、かつて遺産分割協議書に同名の人物が登場していた。その人物は、たしか……もう亡くなっていたはずだった。
逃亡者の足跡と過去の事件
役所に照会をかけると、やはり該当の名義人はすでに死亡していた。しかもその死は、他県で起きた横領事件の関係者として新聞沙汰になっていたという記録が残っていた。
「やれやれ、、、また妙な案件を引き受けてしまったか」とシンドウは頭を掻いた。まるでルパン三世のように、過去の罪をなすりつけるかのような周到な偽装だった。
サトウさんの鋭い視線と小さな誤字
「ここの”譲渡”の字、”譲”が旧字体ですね」とサトウさんが指摘する。たしかに、印刷された書面の一部だけが不自然に滲んでいた。おそらく古いパソコンか偽造ソフトで作成されたものだろう。
「にしても、あの男の足取りが気になるわね」と彼女は冷静に言った。まるで探偵漫画のヒロインのような推理力だ。
「あの電話」は誰からだったのか
昼過ぎに一本の電話が鳴った。無言のまま、数秒沈黙したのち、「その名義、触れない方がいい」とだけ声が聞こえ、切られた。ぞっとした。まるで怪盗からの挑戦状のようだった。
背筋に冷たいものが走る。やはり、ただの名義変更ではない。
登記簿から消えた所有者の謎
過去の登記記録をさかのぼると、二年前に同じ土地が一度第三者に渡っている形跡があった。だがそれは、法務局では閲覧不可能な「閉鎖登記簿」の中にあった情報だった。
「一度白紙に戻された履歴があるということは、なにかあった証拠ですね」とサトウさんが言う。シンドウはうなずき、閉鎖簿の取り寄せを依頼した。
防犯カメラが映した一枚の影
近所のコンビニの防犯映像に、例の依頼人らしき男が映っていた。背広姿で、だが髪を染めていた。どうやら彼は本名ではなく、死亡した人物の名義を借りて全国を転々としていたようだった。
「借りた名で逃げる人生って、どんな気分なんでしょうね」とサトウさんがぽつりと漏らした。
銀行印の位置が語るもの
提出された委任状の印影が、実印ではなく銀行印であることにサトウさんが気づく。しかも、印影が微妙にずれていた。
偽造されたのは印鑑だけではなかった。あらゆる痕跡が、まるで紙の上の嘘のように積み重なっていた。
本物の名義人は既にいなかった
閉鎖登記簿を確認したシンドウは、唖然とした。そこには確かに“本物の”名義人の名前があったが、二年前に亡くなっていた。そして、その死亡届は正規に出されていた。
つまり、依頼に来た男はまったくの別人であり、名義を「借りた」のではなく「盗んだ」のだった。
サトウさんの一言で流れが変わる
「たぶん、本人は別の事件で追われてる。登記を利用して金を動かすつもりだったんじゃないですか?」サトウさんの言葉で、全体像が急に鮮明になった。
なるほど、死亡名義を使っての不正な財産移動か。不動産の名義は、時に犯罪の道具にもなる。
司法書士シンドウの逆転劇
警察に通報すると同時に、委任状を理由に登記の一時停止を申請。すんでのところで不正登記は阻止された。
逃亡者は数日後、別件で捕まったというニュースが流れた。手元にはあの委任状のコピーが残っている。
明かされた偽名と動機の深層
男は元銀行員で、過去の詐欺事件で指名手配されていた。偽名で潜伏生活を送り、亡くなった人間の名義を使って土地を転売するスキームを考えていたようだった。
その名義借りは、逃亡のためではなく、新たな犯罪のためだったのだ。
登記の裏に潜んでいたもの
「結局、紙一枚で嘘も真実になる世界ですよね」とシンドウは呟いた。登記の世界では、事実より形式が先に立つこともある。
やれやれ、、、司法書士ってのは、本当にややこしい仕事だ。
名義の真実が語る償い
数週間後、亡くなった本物の名義人の家族が事務所に現れた。「父の名前が犯罪に使われたと聞きました…」と涙ながらに話す女性に、シンドウはコピーを手渡した。
せめて、真実を遺族のもとに返すことだけは、司法書士としての務めだった。