朝一番の来訪者
事務所のドアが開いたのは、まだコーヒーの湯気が立ち上る前だった。黒い喪服を着た初老の女性が立っており、眉間にしわを寄せたまま、黙って座った。
「仮登記のことでご相談したいのですが」と彼女は言ったが、その視線はどこか定まっていなかった。直感的に、ただの登記相談ではないと感じた。
「詳細をお聞かせいただけますか?」と声をかけると、彼女は一枚の遺言書を取り出した。それは、亡くなった父親のものだという。
仮登記の相談かと思いきや
書類を見ると、確かに不動産の所有権移転に関する内容が記されていた。しかし、その遺言に基づいて仮登記がされたのは、すでに5年前のことだという。
「なぜ今になって?」と尋ねると、女性は俯いた。「実は兄が…この遺言は偽物だと言ってきたんです」
遺言が本物か偽物か、司法書士としては慎重にならざるを得ない。だが、最初から臭う違和感が気になった。
曖昧な依頼と不自然な態度
相談内容を反芻しているうちに、彼女の説明がところどころ噛み合わないことに気づいた。証人の名前も覚えていないというのは、さすがに不自然だった。
それに、仮登記申請がされた当時の登記識別情報が手元にないという点も妙だ。通常であれば、こうした重要書類は家族内で保管されているはずだ。
「仮登記が消えていたら困るんです」と女性は言ったが、すでに不安の根は深く張り巡らされているように思えた。
亡き父の遺言の謎
改めてその遺言書を精査すると、そこには違和感があった。言葉遣いが妙に現代的なのだ。昭和一桁生まれの男性が、こんな表現を使うだろうか。
「意思表示の明確性を保持するため…」など、まるで法務局の説明文のような文言が使われていた。
ふと、かつて読んだ探偵漫画で、偽造文書をフォントで見抜く話があったのを思い出した。まさかとは思うが、これはその類か。
登記簿に記された奇妙な一文
仮登記簿の記載を確認してみると、「本登記への移行予定日未定」という文言が付記されていた。これは通常見られない。
「付記…?」とサトウさんが呟いた。私はその一言で、なにか忘れていた感覚がよみがえった。
付記情報は申請時に記載されるもので、通常であれば法的根拠に基づくはずだ。これは誰が書いたのか。
「遺言の証人に覚えがない」という言葉
管轄法務局に問い合わせてみたところ、驚くべき事実が判明した。記載されていた証人のひとりが、「そんな立会いは記憶にない」と言ったのだ。
さらに、その人物は当時すでに高齢で、筆記も困難な状態だったらしい。これは状況証拠としてもかなり強い。
この時点で、遺言書の真贋に対する疑念は確信に変わりつつあった。
サトウさんの冷静な分析
「これ、印鑑証明の発行日がずれてますね」とサトウさんは無表情で言った。さすがというべきか、彼女の観察力には毎度脱帽する。
印鑑証明書の日付が遺言作成日より一週間も後になっている。物理的に不可能ではないが、不自然極まりない。
「それってつまり…?」と私が聞き返すと、サトウさんは一言、「後から作ったってことでしょうね」と言ってコーヒーを一口。
印鑑証明書の日付に違和感
発行日が遺言日より遅い――これは致命的な矛盾だ。だが、逆に言えば証明書を後から手に入れて遺言を整えた可能性が高い。
これでは遺言が無効になる可能性もある。仮登記がこの遺言に基づくものであれば、相続争いは避けられない。
「やれやれ、、、まさかこんな泥沼になってるとはな」私は思わず頭をかいた。
どこかで見た筆跡
ふとした拍子に、筆跡に見覚えがあることに気づいた。以前、当事務所に届いた相続放棄申述書の筆跡と酷似していたのだ。
あのときの依頼人も、今回の家族構成と関係がある。確かに兄がいた。つまり…?
「怪盗キッドのような仮面をかぶってても、筆跡までは隠せなかったんでしょうね」とサトウさんがぼそっとつぶやいた。
古い仮登記簿を洗い出す
役所の倉庫に保管されていた紙ベースの登記簿を漁る作業が始まった。昭和期の記録はデジタル化されていない。
手書きの登記簿には、確かに父親の署名が数回残されていた。比較してみると、遺言書の筆跡とは微妙に違う。
「この“山”の字の形、明らかに別人ですね」とサトウさん。彼女の分析は細部に宿る。
昭和の時代の名残が鍵に
昔の契約書類に使われた旧字体や独特な言い回し。そこに、今回の偽造が映し出される。新旧の差が埋まらない。
筆跡以外にも、使われた印影も異なるものだった。朱肉の種類も違いが見えた。
こうなると、犯人は近くにいると考えざるを得なかった。
元地主の失踪と噂話
登記簿を見ていくうちに、過去に同じ土地で失踪事件があったことがわかった。元地主が夜逃げし、しばらくして死亡が確認されていた。
それを機に土地の所有権が変わり、いくつもの仮登記がつけられていた。混乱の温床だった。
「そのときに作られた偽造の土台を、今になって再利用したのかもしれませんね」とサトウさん。
証人は誰か
再度、証人として記載された人物の居場所を突き止めた。電話越しに話をすると、その声には戸惑いがあった。
「確かにその年は病院に入院していましたよ。書いた覚え? ないですねぇ」
やはり、証人署名も偽造だった可能性が高い。これで証拠は揃った。
意外な人物の関与
調査の過程で、相続を主張していた兄が、過去に筆跡鑑定で問題を起こしていたことが判明した。まさか、とは思っていたが、やはり。
遺言書と仮登記をでっち上げ、相続を有利に進めるために動いていたのは彼だった。
「完璧な偽造など、探偵漫画の中にしか存在しない」と、どこかで読んだ言葉が頭をよぎった。
サザエさんの波平方式でひらめく
「そういえば、波平さんって、署名するとき必ず“フルネーム”ですよね」とサトウさん。はっとした。
父親の過去の署名はすべて“苗字+名前”だったのに、今回の遺言は“名前だけ”。不自然すぎる。
細かいところにこそ、真実は潜む。今回もまた、サトウさんにしてやられた格好だ。
やれやれ、、、犯人は近くにいた
兄は、すべての証拠を突きつけられると観念した。仮登記の申請も、印鑑証明も、全て偽装だったと認めた。
妹は涙を流しながら「本当に信じていたのに」と言った。家族の絆が、欲に負けて崩れた瞬間だった。
「やれやれ、、、登記簿よりも、人間の心の方がずっと複雑ですね」と私はぽつりとつぶやいた。
遺言の偽造と相続争いの真相
結局、仮登記は無効とされ、相続の話は一からやり直しになった。今後は家庭裁判所での調停になるだろう。
だが、法的に正しいことと、心が納得することはまた別問題だ。そこに司法書士の仕事の難しさがある。
「誰も得しない結末になっちゃいましたね」とサトウさんが小さく笑った。
仮登記が暴いた家族の嘘
今回の件で改めて感じた。登記簿に書かれていることがすべて真実とは限らない。人の欲や思惑は、文字の裏に潜んでいる。
だが、その文字の一つ一つを読み解くのが、私たち司法書士の仕事だ。
今日もまた、静かな事務所に戻り、私は次の相談者を待つことにした。
司法書士の仕事としての決着
関係各所に報告書を提出し、仮登記の抹消申請を行った。これでようやく一件落着である。
疲れ果てて椅子にもたれると、どこからともなくサトウさんの声が聞こえた。
「次の相談者、もう来てますよ」
法的措置と心のケア
制度を守ることと、人を救うこと。その間で揺れる仕事ではあるが、やりがいがあるのもまた事実だ。
それでも今日だけは少し長めに休もう、と自分に甘くなった。
「次はもっと簡単な案件をお願いしますよ、ほんと」
サトウさんの一言が沁みる
「でもシンドウさん、今回はちゃんと活躍しましたね」
サトウさんが珍しく微笑んだ。私は何も言えず、苦笑いを返すしかなかった。
やれやれ、、、明日も頑張るか。