午前九時の依頼人
事務所のドアが開いたのは、朝のコーヒーをようやく口にした直後だった。控えめなノックの後、上品な身なりの老婦人が姿を現した。高級な和装に身を包み、その所作からも只者ではない空気が漂っていた。
「登記のことで相談があるのですが」そう告げた彼女の声には、どこか切実な響きがあった。私はカップを置いて立ち上がり、彼女を応接席に案内した。
とりあえず、朝の平穏は三分で終了。やれやれ、、、そんな気分だった。
身なりの良すぎる老婦人
老婦人の名は吉井カズエと名乗った。年齢は七十代半ばと見受けられたが、姿勢も声も実にしっかりしている。話を聞けば、自宅の名義を娘夫婦に移したいという。
一見、よくある相続対策の話だ。だが、提出された登記簿謄本を見た私は、すぐに違和感を覚えた。現在の所有者の名が、依頼人と異なっていたのだ。
「これは、、、ご自宅ではないのですか?」と問うと、老婦人は曖昧に笑った。
相談内容は不動産の名義変更
「ええ、ですが、事情が少し複雑でして」と老婦人は言葉を濁した。十年前に亡くなった夫の名義のままだというのだが、登記簿には別の名が載っている。
しかもその人物は、家族とは無関係に見える赤の他人だった。カズエ氏の話と食い違っていた。
これは単なる名義変更の話ではない。登記簿が物語る事実と依頼人の言葉が一致しないとき、そこには“何か”が隠れている。
気になる登記簿の記録
私は古い登記簿の履歴を読み込んでいた。法務局の閉鎖謄本から調べると、数回の所有権移転が確認できた。だが、それらには不可解な点が多かった。
所有者が急に変わっていたり、移転理由が売買となっていたが価格が不自然に安かったりと、いかにも偽装工作の匂いがする。
登記の世界で「妙だな」と思ったら、たいてい何かある。私はサトウさんのデスクをちらりと見た。
過去の所有者と現在の所有者の矛盾
登記簿に記された「松谷信一」という名。カズエ氏は聞いたことがないという。だが十年前、確かにこの人物に所有権が移転している。
登記原因は売買。だが、どうやら代金は支払われていない可能性が高かった。これは、よくある“仮装売買”かもしれない。
もしそうなら、誰が何のためにそんな工作をしたのか。登記簿の文字が、逆に雄弁に語り始めた。
権利移転の経緯が曖昧すぎる
登記簿の前後関係を図に起こしながら、私は何度も首をひねった。登記の連続性が不自然に断ち切られているのだ。
まるで、誰かが意図的に登記をいじって“ある人物”の所有であるかのように装っていたように見える。
これは素人の手口ではない。裏に司法書士か行政書士が関与している可能性が高い。となれば、一筋縄ではいかない。
サトウさんの冷静な指摘
「この謄本、共有名義だった形跡があります」書類に目を通していたサトウさんが言った。いつもながら鋭い。
古い登記には、夫婦名義の記録が残っていた。だが、ある時期から突然単独名義に変わっていたのだ。
「共有物の一方が亡くなっても、相続登記なしには動かせないはずですよね?」とサトウさん。私は唸った。確かにそのとおりだった。
法務局の閉鎖謄本のチェック
法務局に赴き、紙の閉鎖謄本を閲覧した。すると、夫の死後すぐに名義変更が行われていた痕跡があった。しかも、その際の登記理由は“贈与”。
それも第三者への贈与だった。何かが決定的におかしい。贈与契約書があれば証明になるが、提出された書類には不備が多かった。
私は書類を持ち帰り、検証を続けた。サトウさんの指摘が、真相への扉を開きつつあった。
土地の評価額と相続の不自然なズレ
固定資産評価額と登記原因との間に、著しいギャップがあった。贈与とされているが、税務署への申告も確認できない。
つまり“隠し贈与”の疑いがある。そして、これは税務逃れの可能性もあるが、もっと深い動機も想像できた。
誰かが“この土地を守るために”、意図的に偽装をしていたのではないか?
過去の売買契約書を探して
「押し入れの奥に、古い契約書があったかもしれません」カズエ氏がそう言った。私は同行を申し出た。
訪れた家は、どこか懐かしい昭和の空気を残していた。ちゃぶ台と蚊取り線香。まるで『サザエさん』の一コマのようだった。
そして、押し入れの中から見つけた一枚の封筒が、物語の核心を照らし出した。
依頼人の証言と矛盾する書類
その中には、故人の手による自筆の覚書が入っていた。内容は、「仮登記として友人名義にしたが、実質は家族のものとする」というもの。
つまり、表向きの所有者変更は、遺産相続を一時的に回避するための偽装工作だった。
だが、その友人はすでに他界しており、さらにその相続人によって名義が勝手に移されたようだ。
筆跡の違いと委任状の不備
登記に使われた委任状の筆跡と、故人の他の文書の筆跡が明らかに違っていた。つまり、偽造の疑いが極めて高い。
名義が意図せず奪われた結果、今の所有者が現れた。登記上は合法だが、実態は明らかに不正だ。
私とサトウさんは、ここから一気に法的反撃のシナリオを練り始めた。
やれやれと呟きつつ動く司法書士
調査書類と証拠を揃え、家庭裁判所への遺産確認の申立てを準備した。場合によっては登記抹消請求訴訟にまで発展する可能性がある。
カズエ氏にはすべての流れを説明したが、難しい顔をして「私が悪いのかもしれませんね」と微笑んだ。
やれやれ、、、私は手帳を閉じ、背もたれに体を預けた。夏はこれからだというのに、もうぐったりだった。
元の名義人を訪ねて判明した事実
故人の友人の娘に会った。彼女もまた、父の過去の秘密に驚いた様子だった。そして、自発的に名義の返還に応じる旨を示してくれた。
こうして争いを経ずに、静かな解決が見えてきた。私は少し肩の力が抜けた気がした。
思えば、これも“登記簿が暴いた過去の取引”というわけだ。
隠された相続放棄と偽造の痕跡
後日、法務局に訂正登記を申請し、無事完了。登記簿にようやく真実が記された。
「手間かけましたね」とサトウさんがぼそりと呟く。私は笑ってうなずいた。
最後にはいつも活躍してしまうのが、私のうっかり司法書士人生なのかもしれない。
事件の真相と静かな告白
カズエ氏は、登記が戻ったことに感謝しつつ、「これで主人にやっと顔向けできます」と涙を流した。
法と書類の世界では語られない感情が、そこにはあった。私は改めて思う。司法書士の仕事とは、人の心を扱うことでもあるのだと。
事件が終わったあとの静けさは、やけに心にしみた。
老婦人の胸にしまわれた過去
夫の死後、何も知らぬまま相続や登記の処理を任せた結果が、今回の事態だったという。誰も責めることはできなかった。
登記簿の数字や文字には、人の人生の断片が隠されている。今回もそれを読み解くことができた。
私はそっと立ち上がり、帰る老婦人を見送った。
子を守るための偽りの登記
全ての背景には、子を守るための思いがあった。偽装ではあっても、その根底には“家族”があった。
正しさとやさしさ。その間にある揺れを、私は今回、肌で感じたのだった。
帰り道、サトウさんが「コーヒー切れてますよ」と言った。私はため息まじりに、自販機へ向かった。