またやらかしたと思った日のこと

またやらかしたと思った日のこと

またやらかしたと気づくまでの静かな時間

朝から違和感はあったんです。事務所で書類を整えて、予定どおり登記申請も済ませた。いつも通りの流れなのに、どこか心がそわそわして落ち着かない。そういう日はだいたい、何か見落としがあるんですよね。でも、忙しさにかまけて「まあ大丈夫だろ」と自分を納得させてしまう。昔からそうなんです、野球部の頃もエラーをした直後は、試合に集中できなくなるタイプでしたから。

違和感の正体に気づいたのは帰り道

その日も夕方になり、車を運転しながらコンビニに寄った帰り道でした。ふと「あれ?」と頭をよぎる感覚。依頼人の名前、書類の中で旧姓のままになっていたような…。でも確認したと思っていた。事務所に戻ってチェックしたら、やっぱりやってましたよ。まさかの旧姓のままで申請してしまっていた。これは完全に自分のミスです。

何かが抜けている感覚との付き合い方

年々この「違和感センサー」だけは研ぎ澄まされてきた気がします。問題はそれを無視してしまうこと。確認作業の時間が足りない、いや取らない。あのときに一呼吸置いていれば、と思っても後の祭り。でも不思議なことに、このセンサーが働くときはたいてい何かある。だからこそ無視すると余計にダメージがでかいんですよね。

「確認したはず」が通用しない世界

登記の世界では「確認したつもり」が一番怖い。登記官は待ってくれませんし、お客さんにとっては一回の手続きが人生の節目ですから。こっちは「忙しかったから」とか言いたくても言えないし、言ったところで信頼は戻ってきません。確認をしたかどうかじゃなくて、ミスがあったかどうかが全てなんです。この割り切りができるようになったのは、10年かかりました。

焦りよりも先に来るのは諦めのような感情

自分でも不思議なんですが、ミスに気づいた瞬間、まずくるのは「焦り」じゃなくて「またか…」という諦めみたいな感情なんです。何度も同じようなことを繰り返しているうちに、ある種の耐性がついてしまったのかもしれません。でもそれは決して良いことじゃない。慣れたら終わり、そう思いながらも、もう一人では限界かもと思うこともあります。

ミスの内容とその破壊力

今回のミスは、一見ささいなように見えて、手続き全体をやり直す必要がある厄介なものでした。旧姓のままで登記してしまったとなると、訂正申請や補正では済まないケースも出てくる。しかもその分、こちらの信用は落ちますし、時間も無駄になる。誰も得しない、ただただ自分の確認不足が原因で起きた悲劇です。

記入漏れ一つでお客さんに謝る週末

案の定、週末にお客さんへ謝罪の電話を入れることになりました。土曜日の午前中、家でコーヒーを淹れた直後だったのに、電話口では謝罪モード全開。お客さんは優しい方で「まあそういうこともありますよ」と言ってくれたけど、その言葉が逆にグサッと刺さる。なにやってんだ、自分…。そんな土日が、月に一回くらいはあります。

土日も頭を離れない登記の話

普通の人がリラックスしているはずの週末、こちらは「あの補正間に合うかな」「あの案件の書類、ちゃんと届いたかな」とずっと頭が回ってる。事務所は閉まってるのに、心はずっと仕事モード。この職業って、オンとオフの境目がないんですよ。だからこそ、こういうミスがメンタルに響くんです。休めてないのに、また仕事でやらかしたという罪悪感が積み重なる。

自分の責任が重すぎて胃が痛くなる瞬間

責任の所在が明確なぶん、逃げ道がない。補正のために関係先へ事情説明したり、自腹で印紙代を払ったり。誰も悪くない、自分が悪い。でもそれを毎回ひとりで処理するって、やっぱり重い。気づけば、昼飯も抜いて胃が痛くなる。最近は気づいたら胃薬が事務所の常備薬になってましたよ。悲しいけど、これが現実です。

「またか」と自分に呆れる夜

夜、事務所の蛍光灯の下でひとり。書類を見直して「またか」とつぶやく。この感覚、何度目でしょう。努力してないわけじゃない、でも結果がこれだと、自分自身に呆れざるを得ない。誰かに相談したい。でも、同業の人とは話しにくいし、家に帰っても誰もいない。そんな夜は、スマホで野球の試合を流しながら、ただ静かにため息をつくだけです。

誰にも頼れないという孤独

この仕事、基本的には孤独なんですよね。事務員さんもいるけど、責任は最終的に全部自分。だからこそ、失敗したときの孤独感は格別。人に相談しても分かってもらえないことが多いし、励ましよりもダメ出しのほうが怖くて、つい何も言えずにひとりで処理してしまう。そしてその繰り返しが、さらに自分を追い込むという悪循環です。

一人事務所のツラさはこんなときに出る

いい時はいいんですよ。一人事務所は自由もあるし、好きなようにできる。でも、トラブルが起きたときには誰も助けてくれない。それどころか、全部自分で背負わなきゃいけない。「法人にしてたら…」「誰かもう一人いたら…」そんなことを考えても後の祭り。苦しいのは、間違いを誰にも見せられないとき。自分の中でぐるぐる回って、出口が見えなくなります。

事務員さんにさえ言えなかったこと

うちの事務員さんは本当に優秀なんですが、だからこそ余計に「ミスしました」とは言いにくい。立場的にはこちらが指導する側ですし、「こんなミスしてしまいました」と言うのも、どこか情けない。なので、結局ひとりで黙って対応する。その繰り返しで、どんどん言えなくなっていく。こういう小さな積み重ねが、結構つらいんです。

「まあいいか」と思われる怖さ

一番怖いのは、「この先生はミスしてもまあこんなもんだよね」と思われること。人は慣れるから、それが普通になる。でもそれは、信用が落ちたということ。だから必死に隠そうとするし、帳尻を合わせようとする。そのために休日返上もする。自分が自分であり続けるために、限界ギリギリのところで立ってる。そんな感じです。

それでもやめない理由とは

じゃあ、なぜ辞めないのか。自分でもたまに不思議になります。でも、この仕事の中にはちゃんと「報われる瞬間」もあるんですよね。それがあるから続けられてるんだと思います。

依頼人の一言が救いになる日もある

ある日、補正のあと再度書類を届けに行ったお客さんが、「大変だったでしょう、ありがとうございました」と頭を下げてくれたんです。こちらがミスして手間をかけたのに、そんなふうに感謝してくれる。それがどれだけ心に沁みたか。その瞬間だけは、「やっててよかった」と本気で思いました。

感謝されるときだけ少しだけ報われる

この仕事は、基本的に感情のやり取りが少ない。感謝されることも、怒られることも、事務的に進むことが多い。でも、その中でふとした瞬間に「助かりました」と言ってもらえると、それだけでしばらく頑張れたりする。ミスを挽回しても、誰も気づかないかもしれない。でも、誰かひとりでも覚えててくれたら、それで充分なんです。

「先生」と呼ばれることの苦みと誇り

正直、「先生」と呼ばれるのはあまり得意ではないんです。気恥ずかしさもあるし、期待に応えられているのか自信もない。でも、やっぱりその呼び方の中には、相手の敬意がある。それを裏切ってはいけないと、身が引き締まる瞬間もある。だから、またやらかしたと思った日でも、やっぱり次の日も事務所に来てしまうんですよね。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。