依頼人は笑わなかった
夏の午後、事務所のドアが静かに開き、男が一人入ってきた。深く帽子を被ったその顔は、どこか疲れたようで、目は鋭さを失っていた。名乗った名前に聞き覚えはなかったが、机に置かれた登記簿の写しには既視感があった。
「祖父の家の名義が、気づかないうちに他人のものになっていました」と彼は言った。目線を伏せたまま、彼は手元の資料を指差した。そこには、不可解な所有権移転の記録が記されていた。
不自然な登記簿の記載
記載内容は、どこから見ても法的には整っている。だが、問題は「整っている」こと自体にあった。書類が整いすぎていたのだ。まるで誰かが、見られることを前提に完璧に準備したかのように。
それは、過去に見た「サザエさん」の回で、波平が怪しまれながらも完璧に料理を作った時と似ていた。何かがおかしい。あまりに上手く出来すぎているという違和感。それがすべての始まりだった。
祖父の家の名義がなぜか変わっていた
登記簿には、現在の所有者として全く関係のない第三者の名前が記されていた。依頼人の家族とのつながりは一切なく、売買の記録もわずか数年前のもの。だが、その時期、祖父はすでに亡くなっていたはずだ。
「売買したなんて聞いてませんでした」と依頼人は呟いた。名義変更が行われたというのに、相続人たちはその事実をまるで知らなかったのだ。これは、単なる手違いではない。何か裏がある。
シンドウ事務所の午後
僕は、缶コーヒーを片手に書類をめくっていた。事務所の中は蝉の声と、パソコンの冷却ファンの音しか聞こえない。サトウさんは黙々とキーボードを叩いていた。
「相続登記と思ったら、これ、ちょっとおかしいですね」とサトウさんが呟いた。僕は、反射的にコーヒーをこぼしそうになり、慌てて手帳で拭いた。やれやれ、、、またやっかいな案件の匂いがする。
久々の相続登記の相談かと思いきや
形式上はよくある相談だった。だが、依頼人が持ってきた書類の中に、「遺産分割協議書」が含まれていなかった。そして不思議なことに、兄弟の名前が一部抜けていた。まるで最初から存在していなかったかのように。
この段階で、僕の中では警戒信号が点灯した。相続には必ず関係者全員の合意が必要だ。それがないのに、どうやって所有権が移転されたのか。書類の精度の高さと矛盾が、謎を深めていった。
遺産分割協議書に潜む矛盾
遺産分割協議書には三人分の署名があり、印鑑も押されていた。だが、その一つがどうにも気になった。朱肉の濃淡、押印の歪み方、そして位置が微妙にずれていた。
僕はスキャンして画像処理で確認してみた。案の定、そこだけが後から別に押された形跡があった。偽造、と断定はできないが、限りなく黒に近いグレーだった。
日付の前後が一致しない事情説明
協議書の日付が、登記申請書に記載された日付よりも数日遅かった。これはおかしい。申請には先に協議書が完成している必要があるからだ。つまり、書類上はタイムトラベルでもしないと説明がつかない。
「提出は急いだが、協議書は後から作ったんだろうな」そう呟きながら、僕は机に頭をぶつけた。うっかりしていたが、これは重大な見落としだった。完全に、事実と書類が噛み合っていない。
不在の兄の存在
依頼人の話によれば、長男にあたる兄が10年以上前に家を出たきり音信不通になっていたという。だが戸籍上は除籍されておらず、生死も不明のままだった。
「もしかして、その兄が登記のカギを握っているのでは?」という疑問が湧いた。書類に兄の名前がないのは、その不在を利用した可能性がある。なにより、兄の同意なく分割協議が成立するはずがない。
行方不明者なのか除籍なのか
戸籍を追いかけると、兄の名前は本籍地の役場に残っていた。しかし、あるタイミングで「転籍」が行われていたことが判明した。その転籍先は、見覚えのある住所だった。
僕は嫌な予感を覚えながら、その地番を見直した。すると、依頼人が持参した資料の中に、その地番がメモされていたのを思い出した。誰かが、確実に何かを隠していた。
家庭裁判所の記録をたどって
調査を進めるうちに、行旅死亡人として登録された人物がいた。その名前は兄と一致していたが、生年月日がわずかに異なっていた。意図的にずらされた可能性がある。
裁判所に保管されていた報告書によると、その人物は一人暮らしをしていたアパートで亡くなっていた。身元を証明するものはなく、遺体は無縁仏として葬られていた。
同姓同名の男が死亡と記録されていた
兄とされる人物の死亡記録は存在するが、その人物が依頼人の兄と同一である証拠はどこにもなかった。だが、あまりに偶然が重なりすぎている。これは本当にただの偶然なのか。
僕は確信した。この死亡記録こそが、登記を可能にした偽装の根幹にある。誰かが、兄の死亡を演出し、書類上で消し去ったのだ。そして、残された相続人たちだけで協議書を作成した。
登記名義の移動が示す意図
調査の結果、登記名義は一度、第三者に売却され、さらに依頼人の叔父へと移っていた。まるで財産を一時的に外へ出して、また戻すような流れだ。これは典型的な名義ロンダリングだ。
しかも、売却価格は異様に安く設定されていた。売買契約書は形式的なもので、実際には資金のやり取りも確認できなかった。登記簿は、すべてを物語っていた。
第三者の名前に変わっていた意味
第三者の名義にすることで、相続ではなく「売買」として登記を通すためのトリックだった。これにより、相続関係者の同意が不要となる。ただし、それには兄の死亡が前提条件だった。
すべては計算され、作られていた。それも、きっと身内の誰かによって。法をかいくぐるための手口に、僕は腹が立った。司法書士として、こういうやり口は許しがたい。
サトウさんの推理が動き出す
無言でサトウさんが、一枚の紙を差し出してきた。そこには、件の地番に該当する土地の前所有者の履歴が書かれていた。調べていたのだ。僕よりも先に。
「この人、登記の手続きを請け負った行政書士と同じ名字です」とサトウさんが言った。まさかと思って確認すると、確かに同一人物だった。内部の人間が関与している可能性が高まった。
手書きのメモに書かれていた地番
あの依頼人が持ってきた資料の中に紛れていた地番のメモ。それがすべての起点だった。地番は過去の兄の住居と一致しており、そこがすべての偽装の舞台となっていた。
手の込んだ計画だった。だが、どこかに必ず綻びは生まれる。そしてその綻びを見逃さないのが、司法書士の仕事だ。少なくとも、うっかりな僕が気づいたくらいだから、完璧ではなかったということだ。
現地調査の果てに
更地となった土地の一角に、古びたブロック塀が残されていた。そこに刻まれた屋号が、依頼人の祖父と一致した。ここがかつての「家」だったことは、疑いようがなかった。
隣家の老人が語った。「そういえば、昔あそこにいた息子さん、妙に急いで売ってたよ」と。話を聞くうちに、状況が浮かび上がってきた。兄は確かにいた。そして、偽装の中核でもあった。
隣人の証言が示した意外な真実
隣人は続けて言った。「そのあと、別の人が名義を持ってきて、しばらくして叔父さんが買ったんだって」。すべては繋がっていた。最初から、すべて仕組まれていた。
兄は金に困っていた。だからこそ、戸籍を移し、死んだことにして家を売った。そして名義が戻ってきた頃には、彼は本当に姿を消していた。闇の中へと。
亡くなった兄の正体
戸籍、登記簿、裁判記録、隣人の証言。それらを突き合わせて、僕は一つの真実に辿り着いた。兄は、生きていた。そして、全てを仕組んだ張本人だった。
だが、名義が戻ったことで、彼にとっての利益は終わった。いまさら追及しても何も出てこない。家族の中で、真実を知る者が誰もいなかった。それが、何よりも悲しかった。
弟になりすました者の狙い
最後の一手は、兄が弟になりすまして依頼人のふりをしたことだった。もしかすると、今日相談に来た「依頼人」すら、本物の弟ではなかったかもしれない。登記簿には、その証拠がない。
真実は、登記簿にだけ残された。あとは、記録と記憶の狭間に沈んでいく。僕は机に寄りかかりながら、深くため息をついた。「やれやれ、、、なんてこった」
解決とその代償
不正な登記は取り消されることとなった。司法書士として、報告を上げ、法務局と連携を取りながら手続きを進めた。それでも、失われた時間と関係は戻らない。
依頼人は、静かに事務所を去っていった。誰だったのか、それすら曖昧なままに。名前だけが残され、真実は風に吹かれて消えていく。そんな午後だった。
家族の絆が崩れた静かな午後
サトウさんは、黙って新しい案件のファイルを開いた。「次は、抵当権抹消です」とだけ言って、僕を見なかった。彼女なりの優しさなのだろう。
僕は椅子に深く座り、天井を見上げた。蝉の声が、今も変わらず鳴いている。何も変わらないようでいて、すべては変わっていく。それが人生だ。
シンドウの独り言
「やれやれ、、、本当にやっかいな仕事だ」そう呟いて、冷めた缶コーヒーを口にした。味は、いつもと同じだった。ただし、今日だけは少しだけ苦く感じた。
それでも、登記簿は嘘をつかない。僕が信じられるのは、それだけだ。今日もまた、嘘の中から真実を探す仕事が始まる。