依頼人は突然に
予約もなく現れた男
梅雨空の昼下がり、事務所のドアが軋む音と共に開いた。予定にはない来客。濡れた傘を手に、五十代半ばの男が無言で立っていた。僕が声をかけようとすると、先にサトウさんが対応してくれた。
「予約されてますか?」と、氷点下のような声で尋ねるサトウさん。男は首を横に振り、小さな封筒を差し出してきた。中には一枚の遺産分割協議書の写しが入っていた。
「兄が死にましてね」と、男は静かに語り始めた。
遺産分割協議書という言葉の影に
一見、形式に問題のない協議書。しかし、僕の目には違和感があった。全員の署名押印があるにもかかわらず、何かが噛み合っていない。とくに相続人のひとり「カネダ」の署名が浮いて見えたのだ。
「やれやれ、、、また厄介な匂いがするな」と思いながらも、表面上は冷静に「預かって調べてみましょう」と返す。いつものように、サトウさんはすでに調査モードに入っていた。
彼女のPCのタイピング音が、まるで名探偵コナンのエンディングテーマのように響いていた。
奇妙な登記簿の記録
不自然な所有権の移転
法務局で閲覧した登記簿謄本には、確かに男の兄の名義から現在の依頼人へと所有権が移転していた。問題はその「原因」にあった。
「令和五年三月二十八日 遺産分割による所有権移転」。だが兄が亡くなった日付と、分割協議書の日付には一週間のズレがある。不自然ではないが、妙に気になる。
さらに、書類の提出者が依頼人本人となっており、ほかの相続人の所在が書かれていないことも引っかかった。
空白の登記期間に何があったのか
登記の申請から完了までの間に、何かがあったのではないか。たとえば、誰かの反対や異議申し立てを無視した形での申請など。
僕は他の相続人の戸籍を調べることにした。過去の住所や本籍を辿る作業は地味だが、まるで探偵漫画の1話目のような展開だ。なにかあるはずだと、うっすら感じていた。
「昔の住所に電話番号があるわ」とサトウさんがつぶやいた。その目が、まるで銭形警部のように鋭くなっていた。
サトウさんの冷静な指摘
筆跡が違う気がしますけど
「この“カネダ”って人の署名、他と比べて違いすぎません?」と、サトウさんが画面を指差す。確かに、他の署名は筆圧も方向も似ているが、ひとりだけ明らかに別の人間が書いたような文字だった。
「もしかして、偽造?」僕が問いかけると、「そこまでは言えませんけど、違和感はあります」と冷静な返事。だが、彼女の目はすでに結論に近づいている気配を漂わせていた。
いつもながら、サトウさんの観察眼には頭が下がる。
登記原因の表記ミスか意図的か
さらに調べてみると、登記原因が「遺産分割」ではなく、実際は「遺贈」に近い状況だった可能性が見えてきた。協議というより、一方的な処理。しかも他の相続人には連絡すら行っていない様子だった。
「これ、完全に手続きの前提が崩れてるかもしれません」とサトウさん。つまり、無効の可能性もあるということ。
やれやれ、、、また裁判所に呼ばれる日が来そうだ。
消えた相続人
本籍を辿っても見つからない
問題の「カネダ」氏の住所地に手紙を送っても戻ってくる。電話も繋がらず、現地に行っても表札すらなかった。まるでこの世に存在しないかのようだ。
「もしかして亡くなってるのでは?」というサトウさんの一言で、死亡届を調べるが該当はなし。となれば、行方不明か、あるいは、、、。
もし彼女が意図的に姿を消していたとしたら、それはこの件に巻き込まれたからか。
戸籍の端に残る小さな違和感
戸籍を読み返していた僕の目に留まったのは、離婚の記録と「姉妹関係を断絶した」という特異な附記だった。どうやら家庭裁判所での調停があったらしい。
そして、その調停からちょうど一年後に登記が行われていた。偶然だろうか。いや、偶然を装った計画かもしれない。
このあたりから、僕の頭の中では、すでにサザエさんのエンディング曲が流れはじめていた。
真相は遺言の裏に
偽造か故意か事実か
再度、依頼人を呼び出し、静かに問いかけた。「この協議書、全員の同意を得ていますか?」と。男は一瞬だけ目を泳がせ、「はい」とだけ答えたが、その語尾はあまりに頼りなかった。
「ご兄弟のどなたかが、ご自身の知らぬ間に登記されたと訴えた場合、無効になりますよ」そう告げると、男はぽつりと漏らした。「妹とは絶縁してました。何をされるかわからなかったから、先に済ませたかったんです」
それは、偽造ではなく“恐れ”が動機だった。だが、恐れで事実を曲げてよいわけではない。
やれやれとつぶやきながら
僕は、男に向かって「裁判で争う可能性もあります」と伝えた。彼は静かに頷き、「それでも構いません」と答えた。
やれやれ、、、なんでこう、楽な案件が一つも来ないのか。帰り道のコンビニで、またカップラーメンを買ってしまう自分を、少しだけ呪った。
その後、依頼人は自ら登記の抹消を申し出た。他の相続人とは和解したという話も、風の噂で耳にした。
孤独な証言が導いた真実
最後に語られた本当の想い
後日、男から封書が届いた。中には短い手紙と、家族写真のコピーが入っていた。「妹と話せました。まだ怒ってましたけど、生きててよかったです」とだけ書かれていた。
それは、登記簿が語った孤独な証言の、ささやかな結末だった。法律は感情を裁かないが、感情が法律を動かすこともあるのだ。
僕はため息をつきながら、机の上のファイルを片づけた。「次の依頼人も、どうせひと癖あるんだろうな」そうつぶやいた瞬間、事務所の扉が再び軋んだ。