「またですか?」と言われた瞬間に冷える心
「あれ、前にも聞いた気がしますが…」そんな一言に心がスッと冷えることがある。相手は悪気なく言ったとしても、こちらにとっては何度も何度も繰り返してきた説明。たとえば、不動産の相続登記の話。毎回、「これは法定相続人全員の同意が必要でして…」と口にするたび、まるで録音テープになった気がしてくる。こっちは一日に何度も話していて、説明が終わるころにはぐったりしている。それなのに「聞いたような、聞いてないような」と言われると、「また最初からか…」とため息が出る。誰も悪くない、でも苦しい。そんな場面が司法書士の日常にはごろごろ転がっている。
同じ質問、同じ返答、同じ疲労
質問されることが悪いわけじゃない。わかっている。でも、毎日何十回と「相続登記って義務なんですか?」と聞かれ、そのたびに「はい、2024年4月から義務化されまして…」と丁寧に答えるのは、正直しんどい。しかも、少しでも語尾が乱れると「なんか不機嫌そうですね?」と勘違いされるリスクもある。こちらは疲れてるだけなのに。事務的に答えれば冷たいと言われ、丁寧すぎると逆に軽く見られる。話し方のバランスを取り続けるこの消耗戦。ああ、誰か代わってくれと思ってしまう日もある。
感情を込めるたびにすり減る何か
「それはですね…」と語り出す瞬間、自分なりに誠意を込めて話しているつもり。でもそれを何十回も繰り返していると、気づけば言葉に重みがなくなってくる。自分の声なのに、自分の言葉じゃないみたいに感じてしまう時がある。まるで壊れかけたカセットプレイヤーのように、同じセリフをリピートしているだけ。話すたびに、自分の中の「やる気」とか「真心」とか、そういった大事なエネルギーが少しずつ削れていくのを感じる。これは“説明”ではなく、“消耗”なのかもしれない。
説明しなきゃ…でも言葉が出てこない
特に忙しい日には、頭の中が渋滞しているような状態になる。午前中に3件の相談、午後は役所との打ち合わせ、その合間に電話とメールの嵐。そんなときに「ちょっといいですか?」とまた説明を求められると、言葉が出てこなくなる。「えっと…それはですね…」と口を開いたものの、途中で何を言いたいのか自分でも分からなくなってしまう。焦りがさらに口を重くし、ますますスムーズに話せなくなる。そうなると相手の顔も曇ってきて、「ちゃんと説明してくれないんですね」と言われたこともある。申し訳なさと情けなさで、もう全部投げ出したくなる。
人が変わるたび、ゼロから始まる説明地獄
一度説明すれば終わる、と思いたい。でも、現実はそんなに甘くない。担当者が変わればまたイチから。相手が親族内で情報共有してくれていればいいが、実際はそうじゃないことの方が多い。「弟から聞いてないです」「姉がそんな話してましたっけ?」。そのたびに、以前と同じように話を始める。いや、それどころか、前回よりも丁寧に話さなければならない。というのも、前の説明で少しでも誤解があれば、それが尾を引いて「前回と話が違う」と言われるリスクもあるから。気が抜けない、神経すり減る、でも誰も助けてくれない。
聞く人は違えど、こっちは毎回初回じゃない
司法書士としてやっていると、同じ案件を何度も話すのは当たり前になっている。でも、相談者からするとそれは「初めての相談」。こちらが疲れていても関係なく、「初回対応」としてフルパワーを求められる。これがなかなかに堪える。どれだけ時間が押していようと、どれだけ昼ごはんを食べていなかろうと、笑顔で「今日はどうされましたか?」から始めなければならない。役割だから仕方ない、でもしんどい。そんな思いを抱えている司法書士、私だけじゃないと思う。
「ご説明いたします」がもう呪文に聞こえる
電話でも、窓口でも、メールでも。「ご説明いたします」が自動的に口から出るようになって久しい。まるで呪文のように唱えて、内容も同じことの繰り返し。それなのに、相手の反応は毎回違うから油断ならない。「え、それ初めて聞きましたけど?」と言われると、「あれ?ちゃんと伝えたはずなんだけど」と自信がぐらつく。記録を見返して「やっぱり言ってるよな」と確認するのが日常茶飯事。自分の言葉に責任を持ち続けるプレッシャーと、空回りする現実に、心がどんどんすり減っていく。
効率化の限界と人間関係の板挟み
何度も同じ説明をするからこそ、効率化したくなる。テンプレートやマニュアルを用意しても、それだけでは伝わらないのが現実。人は“文章”より“人の声”を求めてくる。「書いてあります」と言っても「でも分からなかったから電話したんです」と返される。そのたびに「また最初から…」と内心うなだれる。説明を省けば不親切、丁寧にやれば時間を食う。その狭間でもがく自分がいる。
テンプレート対応のむなしさ
一時期、「説明テンプレート集」なるものを自作したことがある。Wordファイルで項目別に整理し、誰が来てもすぐ出せるようにしていた。でも、それが逆効果になることもあった。「紙じゃ分かりません」「それって私のケースには当てはまらないんじゃ?」。機械的だと反感を買うし、感情を込めすぎると時間がかかる。そうやって一人ひとりに対応していくうちに、「なんのためのテンプレだったんだ?」と自問する羽目になる。まさに、むなしさの極みだった。
マニュアルを渡しても読まれない現実
「これ、読んでおいていただけると助かります」と笑顔で手渡す。相手も「はい、ありがとうございます」と受け取る。でも、数日後に来る質問はマニュアルに書いてあることばかり。読まれてないのか、読んでも理解されなかったのか。どちらにしても、「じゃあ、また説明するか…」と気が重くなる。これはもう文化の違いなのかもしれない。情報を渡す=伝わる、ではない。そう悟った時、余計に言葉を尽くすしかなくなってしまった。
手間をかけた側が悪者になる理不尽
丁寧に時間をかけて説明した結果、「なんか分かりづらいです」と言われたときのショックは大きい。「こっちは手間かけてるのに…」という思いがぐるぐる回る。それでも「すみません、説明が足りなかったですね」と謝るしかない。最終的に悪者になるのは、いつも説明する側。それが理不尽だと分かっていても、立場上そうならざるを得ない。この仕事、ほんと精神的に削られることが多い。
事務員への引き継ぎもひと苦労
事務員を雇ってはいるけれど、すべてを任せきれるわけじゃない。仕事の性質上、最終判断や微妙なニュアンスの部分は結局こっちがやることになる。説明の引き継ぎもその一つ。「これはこう説明して」と伝えても、「そういう風には伝えにくいです」と返ってくることもある。その結果、結局また自分が説明する羽目になる。時間短縮のつもりが、かえって時間がかかる。効率化とはいったい何なのか、分からなくなる瞬間だ。
「それ、また言ってましたよね?」の一言に沈む
事務員に向かって説明していたとき、「あ、それ前も聞きました」と言われたことがある。軽い一言のつもりなんだろうけど、こっちはその一言でグサッとくる。「また同じこと言ってるんだな」と思われている、という被害妄想のような感情に支配されてしまう。自分の言葉が軽く扱われている気がして、なんとも言えない孤独に包まれる。教える側って、実はすごく神経を使ってるんだよ、と誰かに分かってほしくなる。
教える方が一番しんどいんです
「教えるのが得意そうですよね」と言われることもあるが、そんなことはない。むしろ、教えるのが一番しんどい。知識があるからといって、それを分かりやすく伝えるスキルは別物。しかも相手の理解度や性格に合わせて説明方法を変えなければならない。同じことを何度も話し、相手が納得しなければまた言い直し。それを一日何回もやる。正直、独り言の方がよっぽど楽だと思う日すらある。