誰かのためにと思えた朝だけ少しだけマシだった

誰かのためにと思えた朝だけ少しだけマシだった

朝 起きる理由が見当たらない日もある

目覚ましが鳴っても、布団の中から出る理由が見つからない朝がある。書類の山、依頼者からの催促、締切の気配、何もかもが重たくのしかかる。司法書士という仕事に就いて15年を超えたが、年々、朝がつらくなる気がする。誰にも感謝されない仕事が続くと、自分の存在価値すら疑ってしまう。昨日も22時を過ぎてから登記完了をメールした。返信はなかった。別に求めていたわけではないが、心のどこかで「ありがとう」と言ってもらえたら違った気もする。そんな朝が、積もり積もって、心の中に澱のように沈んでいく。

誰のためでもない仕事が続くと心が乾く

この仕事は、基本的に「感謝」が見えにくい。依頼者は「やってもらって当然」だと思っているし、こちらも「やって当然」という気持ちでいる。そうでなければ精神がもたない。けれど、長く続けていると、ふとした瞬間に空しさが襲ってくる。自分が今やっていることが、本当に誰かの役に立っているのか、わからなくなるのだ。登記申請も、書類作成も、法務局とのやりとりも、日常の一部になりすぎて、目的が見えにくくなる。まるで誰のためでもない作業を延々と繰り返しているような感覚に陥る。

それでも机に向かう自分を支えるもの

そんな気持ちを抱えながらも、私は毎朝机に向かう。背中を押してくれるのは、「一人で事務所を止められない」という責任感かもしれない。もう一人の事務員さんにも迷惑をかけたくないという気持ちがあるし、依頼者に対する最低限の誠意もある。たとえそれが“義務感”だったとしても、それが私を支えてくれている。ある意味、それも「誰かのために」だ。元野球部の性分なのか、「とりあえず今日も出る」という習慣が、私の人生をつないでいるのかもしれない。美しい動機じゃなくても、動ける理由にはなる。

「ありがとう」の一言が効きすぎる理由

最近、ある依頼者から「本当に助かりました」と言われたことがあった。簡単な相続登記だったが、長年放置されていた事情があり、少し根気の要る案件だった。その「ありがとう」は、たった一言だったけれど、体の奥まで沁みた。たぶん、私はずっと、誰かに認められたかったのだと思う。「仕事ができる」と言われたいのではなく、「あなたがいてよかった」と言ってもらいたかった。たまにしか聞けないその一言で、何日も何週間も頑張れるのが不思議だ。

依頼者の言葉に救われた記憶

昔、遺産分割で揉めに揉めた案件があった。兄弟同士の対立は激しく、毎週のように感情的な電話がかかってきた。精神的にも限界だったが、ある日、弟さんの方から「兄と話すきっかけをくれてありがとう」と言われた。司法書士としては、ただ手続きを進めただけ。けれど、その言葉で「この仕事に意味はあるんだ」と思えた。その帰り道、車の中で一人泣いたのを覚えている。人の感情に触れる仕事は、自分の感情も揺さぶってくる。

事務所を出たあと車の中で泣いたあの日

「おかげで家族が前に進めました」と言われたその日、私は事務所の駐車場でエンジンを切ったまま、ぼんやりと外を眺めていた。疲れと安堵が入り混じって、気づけば涙が出ていた。普段は冷静にふるまっているが、本当は不器用で、気持ちを整理するのが下手くそだ。感謝の言葉に弱いのは、自分自身が孤独を感じているからかもしれない。誰かの役に立ったという実感は、心の支えになる。

感謝が響くのは心が擦り切れている証拠かもしれない

「ありがとう」という言葉に過剰に反応してしまうのは、きっとそれだけ普段は無感情に働いているからだ。まるで無音の中に突然音が鳴るように、その一言が心に響いてしまう。感謝が欲しくて仕事をしているわけじゃない。でも、長く働くほどに、「誰のために」を見失いやすくなる。そんなときに受け取る感謝は、乾いた地面に降る一滴の雨のように、染み込んでくる。

忙しさは強さじゃない

「忙しそうですね」と言われることがある。褒め言葉だと思われているかもしれないが、私には呪いのように聞こえる。忙しさは、決して強さの証じゃない。むしろ、自分の生活や心を犠牲にして、回しているだけのことも多い。最近では、仕事が終わった後に何もする気が起きず、コンビニ弁当で夕食を済ませてしまう日も増えた。忙しさで自分を誤魔化しているだけなんじゃないかと、ふと思う。

時間に追われる日々が奪っていくもの

朝から電話、午後は法務局、戻ってきたら書類作成、そしてまた別の相談対応。気づけば夜。そんな日が続くと、何のためにやっているのかわからなくなる。仕事が趣味だった時代もあったが、今は違う。気力が持たない。何より、心がすり減っている。自由な時間も、人とのつながりも、何もかもが「忙しさ」によって奪われていくように感じる。そして、誰かのために働いているはずが、気づけば誰のためでもなくなっている。

「頑張ってるね」と言われても報われない理由

「頑張ってるね」と言われるたびに、「それって何の意味があるのかな」と思ってしまう。頑張っても報われない、そんな現実を何度も見てきたからだ。結果がすべての世界。手続きが正確でも、速くても、「ありがとう」と言われる保証なんてない。なのに、自分だけが消耗していく感覚。だからこそ、「誰かのために」という思いがなければ、踏ん張れないのかもしれない。

誰かの人生の一部に関わるということ

登記や書類作成は、ただの事務作業に見えるかもしれない。でも、その先には必ず人がいる。家を買う人、亡くなった親の財産を整理する人、事業を始める人。それぞれの人生に関わっていると思うと、身が引き締まる。だが、目の前の作業が多すぎて、その「人」を見失いがちになるのも事実だ。

登記の向こうにいる顔のない人たち

パソコンの画面に向かって申請データを打ち込みながら、ふと「この人はどんな想いでこの家を買ったのだろう」と思うことがある。けれど、実際には顔を見ることも、声を聞くこともないことがほとんどだ。そんな距離感が続くと、「誰かのために」という感覚が薄れていってしまう。それでも、自分の手が動かす登記が、誰かの人生の一部になっているという事実は、変わらない。

相続の相談で初めて聞いた涙声

ある日、電話口の女性が突然、声を詰まらせた。「実家を手放すのは寂しいですね」と言った私の一言に、感情があふれたのだろう。普段は淡々と進む相続の手続きが、その瞬間だけ、ひとつの人生と交差した気がした。私たちの仕事には、そういう瞬間が時折、訪れる。だから辞められない。つらくても、続けていける理由になる。

書類じゃ埋まらない感情がそこにある

役所の手続きには期限があり、法務局には決まりがある。でも、人の感情には期限も決まりもない。書類で整えることができるのは、あくまで「形」だけであって、その裏にある想いまでは扱えない。けれど、それを想像し、少しでも寄り添うことで、書類の重みが変わってくる。私はそれを信じたい。

「誰かのため」が自分を立たせてくれる

独身で、家に帰っても誰もいない。そんな自分が毎日仕事を続けられているのは、きっと「誰かのために」という気持ちがあるからだ。完璧じゃなくていい、正確じゃなくてもいい。ただ、今日も一人でもいいから、「頼んでよかった」と思ってもらえたら、それで十分だ。そう思える朝だけは、少しだけマシに感じる。

元野球部の根性ではどうにもならない朝

高校時代、真冬でもグラウンドを走っていた。泥まみれの練習にも耐えてきた。それでも、大人になってからの「起きる理由のなさ」は、あの頃の比じゃない。精神的な重さは、体力じゃ乗り越えられない。だからこそ、「誰かのために」と思える瞬間を、自分の中に探し続けている。根性では乗り切れない日々の中で、それが最後の支えになる。

でも 今日も一人の誰かの助けになるかもしれない

たった一通のメール、たった一枚の書類。けれど、それが誰かにとっては人生を前に進めるきっかけになるかもしれない。そう思うと、少しだけ背筋が伸びる。この仕事は、表に出ないけれど、確かに誰かの人生に寄り添っている。そのことを、忘れずにいたい。

この仕事の本質はそこにある気がしている

結局、司法書士という仕事の本質は、「誰かの背中をそっと押すこと」なのかもしれない。派手さはないし、評価されにくい。でも、確かに人の人生を支える瞬間がある。だから、今日もまた事務所のドアを開ける。誰かのために。それが、少しだけマシな一日を作ってくれるのだから。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。