通帳記帳より記憶の整理がしたくなる日
ATMの前で、俺はまた立ち尽くしていた。画面には無機質な「通帳をお取りください」の文字。手元の通帳には、数字が几帳面に並んでいる。入金、出金、手数料、そして…あの三千五百円。
「やれやれ、、、」俺は小さくつぶやき、通帳を閉じた。
三千五百円。あれは間違いなく、あのときのカフェ代だ。依頼人との面談後、なんとなく入りづらかった喫茶店に無理やり入り、妙に苦いコーヒーを飲んだ。「サザエさん」のマスオさんみたいな髪型の店主に、「お仕事お疲れさまです」と言われた記憶だけが妙に濃い。
「通帳って便利だよな。金の流れを可視化してくれる」
事務所に戻ると、サトウさんがまたもや冷静な声で言う。彼女は今、月次の出納チェック中。俺の小さなため息にも気づかぬふりで、電卓を弾く。
「でも俺は、金より気持ちの流れが見たいわ。ほら、探偵マンガの名推理みたいに、心の動機を読み解きたいんだよ」
「記憶の記帳、ですね」
サトウさんが一度だけ顔を上げ、ふっと笑った。くそ、うまいこと言いやがって。
記憶の中の犯人探し
昔、怪盗のように時間を盗んでいったあの依頼人のことを思い出した。初対面で笑顔を浮かべ、何度も「ご迷惑かけてすみません」と言っていたのに、実際には書類の期限をすっぽかし、俺に何度も役所に足を運ばせた人だ。
数字ではわからない。だが、心の中の「容疑者」ははっきりしていた。
その後も、通帳を開くたびに現れる「事件の痕跡」に俺は勝手に意味を探した。駅前の立ち食い蕎麦で払った四百八十円は、登記完了の後のささやかな打ち上げ。あの五千円は、誰かへの餞別金。…いや、あれは確か自分用のネクタイだったか?
最後のページに残るもの
記帳欄がいっぱいになった通帳を見て、俺はページをゆっくりと閉じた。
「こんなに使ったのか」じゃなくて、「こんな日々があったのか」と思う。
登記は残っても、会話や温度や、机に置かれた缶コーヒーのぬるさは、数字にはならない。
「新しい通帳、そろそろですね」とサトウさん。
「ああ。心のほうも、新しいページがほしいよ」
「まず、机の上の書類を整理してください」
やれやれ、、、記憶より現実のほうが俺には手ごわい。
それでも俺は、明日も通帳を開く。そして、できればその裏にある気持ちの記帳も、少しずつしていけたらと思う。