「頼まれごとを断れない病」から抜け出したいだけなのに

「頼まれごとを断れない病」から抜け出したいだけなのに

なぜ「断れない」のか、自分でもわからない

昔からそうなんです。頼まれると断れない。司法書士になってからも変わらず、むしろ悪化している気すらします。最初は「小さなことだから」と引き受けた案件が、あとからどんどん大きくなって、気づけば本業の時間すら圧迫される。断る理由はあるのに、口が動かない。そんな日々が続いています。

断ると感じる罪悪感の正体

なぜ断れないのか。その根底には「罪悪感」があるように思います。相手にがっかりされるのが怖い。冷たい人間だと思われるのが嫌だ。たとえば、昔の知人に「ちょっと書類だけ見て」と頼まれたとき、本当は他の仕事が詰まっていて無理だった。でも断ることで「付き合いが切れるんじゃないか」と思うと、つい「いいよ」と言ってしまったんです。後悔しました。

「あの人に悪いな…」の気持ちが消せない

「断ったらあの人が困るかもしれない」。そう思うと、どうしても断れないんですよね。お節介だとわかっていても、頼まれごとを突き返す勇気が出ない。依頼してきた人に悪意があるわけじゃないし、むしろ好意で頼ってくれている。でも、その好意が自分の時間や心を削っていく。そんなことが日常的に起こると、「頼まれる=負担」になってくるのです。

小さなお願いを断れないまま、大きな負担になる

一番つらいのは、「最初は小さかったはず」の依頼が、後になって爆弾のように膨れ上がるケースです。軽い気持ちで受けた戸籍の取り寄せが、実は相続人が全国に散らばる案件だった…なんてことも。断るタイミングを逃すと、もはや「今さら言えない」。結局、睡眠時間を削ってでもやることになり、自己嫌悪のループ。こういう時、自分の人生の主導権を誰かに渡してる気分になります。

自分の価値=人に尽くすこと?

私自身、「人の役に立つこと」が生きがいのようになっていた時期があります。人に感謝されると、自分の存在価値を実感できる気がしたんです。でも、それって本当に健全なあり方なんでしょうか?「尽くしすぎることでしか自分の価値を感じられない」状態は、いわば自己評価が外部依存になっているとも言えます。

「頼られる自分」で自尊心を保っていた

思えば昔から「相談されやすい人」でした。聞き役に回るのも、何か頼られるのも嫌いじゃない。でも、それがいつの間にか「断れない性格」を形成してしまったんです。特に独立してからは「自分がやらなきゃ誰がやる」という思い込みも手伝って、ますます断りづらくなっていった。頼られることと、無理を引き受けることは別なのに、混同していたんですね。

でも、その信頼は“都合のいい人”かもしれない

ある日ふと、「自分は本当に信頼されているのか?」と疑問が湧きました。もしかしたら、「この人なら断らないから頼もう」と思われているだけなんじゃないか…。便利屋になっている自分を客観的に見たとき、背筋が寒くなりました。信頼ではなく、ただの“使いやすさ”で依頼が来ているとしたら、それは自分をすり減らしてまで応じる価値があるのか、考え直す必要があります。

司法書士という仕事が、断りにくさを加速させる

司法書士という職業は、一般の方からすると“法律のプロ”というイメージが強く、ちょっとした相談でも「聞いてくれるだろう」と思われがちです。しかも地域密着型の業務が多いからこそ、人間関係も濃密。「あの人の紹介だから」と言われると、断るハードルはさらに上がります。

地元だからこそ断れない

田舎で仕事をしていると、いい意味でも悪い意味でも“顔が効く”ようになります。知人の知人、同級生の親、町内会の役員…。いろんなところから頼みごとが舞い込んできます。「あの人、断ったらしいよ」と悪評が立つのが怖い。それが地域社会の怖さでもあります。でも、それを理由に断らないままでいると、自分の時間はすり減る一方です。

顔が広がるたびに、無茶な依頼も増えてくる

一度だけ、相続でも何でもないのに「役所の窓口に一緒に来て説明してほしい」と頼まれたことがありました。完全に業務外です。でも、頼んできたのが昔お世話になった町内の人で…結局行きました。あとで冷静になって、「これ、完全に私がやる必要あった?」と自問自答。断らなかった自分を責める羽目になりました。

「ちょっとだけ見て」は、だいたい地雷

この一言、司法書士あるあるだと思います。「ちょっと書類を見て」「一瞬でいいから教えて」。でも、それに応じると十中八九、面倒な案件が潜んでいます。しかも“無償”の空気感。無償でやる=プロの価値を自ら下げているようなもの。それをわかっていても、「時間があるときにでも」なんて言われると断りづらい。永遠のジレンマです。

一人事務所ゆえのジレンマ

人を雇っているといっても、事務員さんは基本的に一般業務のみ。専門的判断や、断る判断は結局自分でやるしかない。すべての案件の責任を背負っているというプレッシャーがあるからこそ、あまりにもドライな対応ができなくなってしまう。お金にならない案件を断れないまま、結局残業だけが積み重なる日々です。

「全部自分でやるしかない」が断る選択肢を奪う

一人で抱える仕事が多すぎて、「この程度なら自分でやった方が早い」と思ってしまう。その結果、どんどん“自分の仕事”が増えていくんです。断って他に回す、という選択肢すら浮かばなくなる。効率化よりも「とにかく回す」ことを優先してしまい、結果的にクオリティも落ちていく。これは、本当に悪循環です。

断ることは、関係を壊すことじゃない

最近ようやく、「断ることは悪いことじゃない」と少しずつ思えるようになってきました。むしろ、正直に「できません」と伝えることで、相手との関係が健全になることもあると実感しています。もちろん最初は怖い。でも、慣れてくると、その誠実さが信頼に変わる場面も出てきます。

「断る勇気」は、仕事を守るために必要なスキル

司法書士として長く仕事を続けるには、「断る勇気」も大切なスキルです。断ることで自分の時間と精神を守り、結果的に依頼者に対しても質の高い仕事ができるようになる。これは自己防衛ではなく、むしろプロとしての責任だと思います。「何でも屋」になるより、「ちゃんと断れる人」になることのほうが、よっぽど信頼されます。

最初は冷たく見えても、長期的には信頼につながる

たとえば、「今は手が回らないので、他の専門家を紹介します」と丁寧に伝えたとき、相手から「ちゃんと考えてくれてるんですね」と感謝されたことがあります。断る=冷たい、ではない。むしろ、安請け合いして雑な対応になる方が、よほど信用を失います。誠実に断ることは、信頼の種になるんです。

実際に断ってみたらどうなったか

つい先日も、「格安で登記をやってくれ」と言われた案件をお断りしました。以前なら絶対引き受けてた。でも、今回は勇気を出して「、それは対応できません」とハッキリ言ったんです。結果は意外でした。相手は拍子抜けするほどあっさり引き下がったんです。

意外とみんな、あっさり受け入れてくれた

拍子抜けでした。「なんだ、それで済むならもっと早く断ればよかった」と思いました。断ったことで逆に関係がスッキリして、今でも普通に付き合いは続いています。あの時「嫌われたらどうしよう」と思っていた自分が、いかに過剰に心配していたかがよくわかりました。

逆に「言ってくれて助かる」と言われたことも

さらに驚いたのは、別の依頼で断ったときに「無理してやってると思ってた。ちゃんと断ってくれて安心した」と言われたことです。人は意外と、こちらの“無理してる感”にも気づいているんですよね。だったら、無理せず最初から誠実に断る。それが結局、お互いのためになるんだと痛感しました。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。