朝の静寂を破る電話
午前九時。事務所の壁掛け時計が鳴る前に、電話のベルが鳴った。いつものように、僕は湯呑みに口をつけながら今日も平穏に始まるかと期待していたが、その希望は一瞬で打ち砕かれた。
受話器を取ったのはサトウさんだった。眉ひとつ動かさずに「司法書士事務所です」と告げる彼女の声は、今日も温度が氷点下を指していた。
「仮登記の件で少しお伺いしたいのですが」と、相手の男性は言った。声の震えに何かただならぬ気配を感じ取った。
事務所に鳴り響いた一本の問い合わせ
依頼人は地方の古い一軒家を相続したはずの男性で、家を売却しようとして仮登記の存在に気づいたという。「亡くなった祖父が誰かに名義を貸していたようなんです」と話す彼の口調には不安が滲んでいた。
「仮登記が抹消されていないと売れない」と説明すると、彼は小さく「ああ、やっぱり……」と呟いた。まるで何かを確信していたような口ぶりだった。
仮登記の内容を見ると、登記名義人は見覚えのない人物で、権利の原因も曖昧だった。何より奇妙なのは、登記日付が数年前にもかかわらず、まったく更新されていないことだった。
サトウさんの冷たい第一声
電話を切ったあと、サトウさんがぽつりと漏らした。「古い仮登記、相続、売却予定の不動産。面倒の三拍子ですね」
まるでサザエさんのオープニングで「波平さんがまたハンコをなくした」的な展開になるぞと予告されているようだった。
僕は重い腰を上げ、申請書と登記簿のコピーを鞄に突っ込みながら、「やれやれ、、、」とひとりごちた。
謎めいた仮登記の存在
法務局で取得した登記事項証明書を見る限り、仮登記は抵当権のようでもあり、所有権移転のようにも読める曖昧な内容だった。
しかも登記原因が「譲渡予約仮登記」とあるのに、その契約書の写しが提出されていない。何よりも驚いたのは、仮登記の名義人が地元の司法書士だったことだった。
「登記の依頼人が司法書士本人」というのは、なんとも奇妙な話だった。
依頼人の不安げな表情
再度会った依頼人は、ややこしい話になってきたと察したのか、眉間にしわを寄せていた。彼は祖父の死後にその家を訪れたことすらなく、登記の内容は完全に把握していないという。
だが、話を聞いているうちに「祖父は昔、ある先生と揉めていたと父が言っていた気がする」とぽつりと呟いた。
この時点で、何かが動き始めていた。点と点が、まだ線にはなっていないが、不穏な空気だけは確実に漂っていた。
登記簿に刻まれた過去の記録
登記簿をよく見ると、当時の申請番号が抜けていた。これは明らかにおかしい。通常なら申請書が添付され、内容が法務局で審査されるはずだ。
「誰かが意図的に書類を抹消した?」その仮説が頭をよぎる。だとすれば、それをできる立場の人間は限られている。
すなわち――登記の専門家、つまり司法書士だ。
法務局での小さな違和感
受付窓口で登記簿謄本を請求していたとき、見慣れない顔の職員が、どこか言い淀むように「この登記簿、何にお使いですか?」と尋ねてきた。
通常の対応からすれば、それは不自然だった。まるで、調べてほしくないことが書かれているかのようだった。
その瞬間、僕は小さくため息をついた。「やっぱりか、、、」
地番が示すもう一つの物語
隣接地の地番を見ると、かつて別の所有者が申請していた仮登記が類似の形式で残っていた。共通点は、すべて同じ司法書士が関与していた点。
しかも、その司法書士はすでに業務を廃業し、町を出ていた。まるで、何かから逃げるように。
僕の背筋に冷たいものが走った。これは単なるうっかりでは済まない。
照合ミスか意図的な改ざんか
当時の申請書を閲覧しようと法務局の書庫にアクセスすると、一部の書類が破棄されていることが判明した。記録によれば、破棄理由は「劣化による保存不能」。
しかし、そこに記載された「破棄日」が今年の日付になっていた。
わざと残さないようにしたのでは――と考えるのは、推理小説の読みすぎだろうか? いや、たぶん違う。
空き家に潜むもう一人の所有者
現地調査に赴くと、廃屋となった建物のポストに、最近投函されたばかりの固定資産税納税通知書があった。宛名は、あの元司法書士の名前だった。
彼はまだこの家を何かの形で利用しようとしていたのか。それとも、名義だけ残していたのか。
ポストの中には、彼が所有する別の不動産の登記情報まで含まれていた。
差出人不明の固定資産税通知
その納税通知書には、妙な点があった。差出人の市役所名がスタンプではなく手書きだったのだ。
しかも使用されていた筆跡が、先ほど見た申請書の裏書きと酷似していた。
これは偶然ではない。きっと誰かが、何かを隠そうとしている。
消された住所の意味
登記簿の住所欄に、薄く修正の跡があった。古いインクの上から新しいインクで上書きされている。
修正印もなければ、訂正の記録もない。完全な違法操作だ。
これは決定的な証拠になる。だが証明には、もう一つの裏付けが必要だった。
かつての名義人が残した手がかり
廃屋の床下から見つかったのは、一通の古びた封筒だった。中には、提出されなかった仮登記抹消の申請書と、メモが一枚。
「私の過ちが、誰かの未来を奪わぬよう願う」そう書かれていた。
その筆跡は、まさしく件の司法書士本人のものだった。
サトウさんの冷静な推理
事務所に戻り、書類を並べていた僕に、サトウさんが言った。「この筆跡、左上がりに傾いてますよね。実はこれ、脳梗塞後に多い特徴なんです」
彼女の指摘は鋭かった。つまり、あの元司法書士は体調の変化で自らの処理ミスを悔いていたのかもしれない。
過去のミスに、良心が勝った。だが、遅すぎた。
真犯人は司法書士だった
全ての書類を照合した結果、あの仮登記は業務の過程で自分に利益を与える目的で行われていたと断定できた。いわば内部犯行だ。
依頼人にもその旨を報告し、あとは登記抹消手続きと、管轄警察署への通報となった。
「やれやれ、、、また一つ、後始末だな」と、僕は再び湯呑みに口をつけた。
事件の後の事務所にて
すべてが片付いたある夕方。事務所には久々に静けさが戻っていた。
「今回のは、なかなかでしたね」と、サトウさんがほんの少しだけ笑った。珍しいことだった。
僕はふと窓の外を見た。陽が沈むころ、また次の依頼の電話が鳴った。