「今日なにしてたの?」って、聞かれたいだけの夜もある
誰にも聞かれない「今日」を、そっと持て余す夜
今日も朝からバタバタしていた。8時半には役所に出向き、戻ってきたら依頼人との電話応対。その後は登記申請の書類を整えて、気づけば午後3時。昼ごはんをコンビニで済ませたことすら忘れて、また机に向かう。そんな一日だった。書類の山をなんとか片付け、事務員さんを見送った後の事務所には、誰もいない。時計の針が静かに進む音がやけに大きく感じる。ふと、「今日なにしてたの?」って誰かに聞いてほしくなった。聞かれない今日に、ちょっとした寂しさが忍び寄ってくる。
「今日も一日おつかれさま」が、こんなに遠い言葉になるとは
「今日もおつかれさま」って、たったそれだけの言葉なのに、最近じゃ誰にも言われない。仕事を終えて家に帰っても、待っているのは無音の空間。テレビをつけても、自分とは関係のない誰かの日常が流れていくだけ。昔、付き合っていた女性がいて、帰り際にいつも言ってくれた。「今日もがんばったね」って。それがどれだけ支えになっていたか、別れてから気づいた。あの言葉が、こんなに恋しくなるなんて、正直想像もしてなかった。
忙しさは満ちていても、空っぽの夕飯
夕飯は大抵コンビニ弁当かスーパーの総菜。食べる時間も決まってないし、食べながらスマホをいじって終わる。栄養なんて二の次。とにかく「腹が膨れればいい」という感覚で、誰とも会話せずに食事を終える。昔は誰かと食卓を囲む時間があった。何を食べるかより、誰と食べるかのほうが大事だったと、いまなら分かる。なのに、日々の仕事に追われるうちに、それを選び取る時間さえ惜しむようになっていた。
独身の自由と、会話の不在
自由はある。好きな時間に寝て、好きな時間に働いて、誰にも文句を言われない。でも、自由と引き換えに何を失ったかというと、誰かとの会話だ。今日見た景色とか、ちょっと面白かった依頼人との話とか、仕事で理不尽だった出来事とか、そういう他愛もないことを話せる相手がいない。話さない日が何日も続くと、自分の声に違和感を覚えるようになる。ふとしたとき、自分の存在がすり減っていくのを感じる。
今日という日のことを、誰かに聞いてほしかった
今日という一日は、確かにあったはずなのに、誰にも記録されないまま過ぎていく。その虚しさに襲われる夜がある。誰かのために働いている自負はあるし、それがやりがいにもなっている。でも、その「誰か」から感情的なつながりを得られるわけではない。せめて、「今日なにしてたの?」って誰かが聞いてくれたら、「ああ、今日がちゃんとあったんだな」と思える気がする。
愚痴をこぼす相手がいないって、実はけっこうキツい
愚痴ってのは、ただの文句じゃないと思う。たぶん、「助けて」の言い換えだ。たとえば、「今日、役所の担当者に無理難題を言われてさ…」みたいな話も、笑いながら聞いてくれる人がいたら、それだけで救われる。でも、愚痴をこぼす相手がいないと、苦い感情が溜まっていく。溜まりすぎると、自分が壊れる。実際、夜中に突然、どうしようもなく苦しくなったことがある。愚痴をこぼす場所って、大事なんだなと痛感した。
事務員さんには言えないこともある
ありがたいことに、うちには長く働いてくれてる事務員さんがいる。仕事も丁寧だし、信頼もしてる。でも、彼女には言えないこともある。たとえば、「最近、自分の存在ってなんだろうって考えちゃって」なんて重たい話はできない。距離があるからこそうまくいっている関係もあるし、それを壊したくない気持ちもある。だからこそ、もっと砕けた関係性の誰かがいたらな、と思うこともある。
「モテなさ」と「孤独」のリアルな話
45歳、地方の司法書士、独身。これだけで「モテなさ」を説明するには十分だと思う。かといって、婚活をしているわけでもない。出会いの場にも行かない。じゃあ何が欲しいんだと言われれば、ただ誰かと話したいだけだ。誰かの役に立ちたいと思ってこの仕事をしてきたのに、ふと、自分は誰の中にも存在していない気がする瞬間がある。独身であることが悪いとは思わないけれど、「独り」であることには、時々やりきれなさを感じる。
恋愛じゃなくて、ただの関心がほしい
求めているのは恋愛感情じゃない。ただ、「今日は何してたの?」「最近どう?」って気軽に声をかけてくれる誰かがほしいだけ。そう言うと「友達作れば?」って簡単に返される。でも、大人になると、利害や距離感や立場が邪魔をして、そんな関係はなかなか生まれない。自分でも意識して壁を作ってしまう。だからこそ、何の見返りも期待せず、ただ日常の話ができる関係性が、どれほど貴重かを思い知る。
人に興味を持たれないことの痛み
最近、誰かから「最近どう?」と聞かれたことがない。それはつまり、自分に対して関心を持たれていないということ。司法書士としては、人の人生に関わることが多いけれど、それはあくまで仕事上の役割であって、個人としての「自分」に興味を持たれることはほとんどない。それが続くと、自分の価値ってなんだろう、と考えてしまう。人に必要とされていても、人に好かれているわけじゃないという現実が、なかなか重たい。
司法書士って、誰かと分かち合う瞬間が少ない仕事
この仕事は、誰かを助ける仕事ではある。でも、それが「一緒に喜ぶ」瞬間につながることは意外と少ない。依頼人との関係は基本的にドライで、感情の交差はない。信頼はされても、そこに人間的なやり取りがあるかというと、正直あまりない。それがこの職業の孤独さでもある。成果があっても、「すごいね」と言ってくれる人がいない。それを誰かと分かち合えたら、もう少しだけ救われるのにと思う。
クライアントとは話すけど、感情は交わらない
クライアントとは会話を交わすけれど、それは事務的な内容が中心。どんなに信頼関係ができていても、深く踏み込んだ話にはなりにくい。たとえば相続の案件で長く関わっていても、その人の人生の感情的な部分には触れないまま終わることが多い。必要以上に関わらないという距離感は、司法書士としての適切な姿勢かもしれない。でも、感情が交わらない仕事ばかりだと、自分自身の感情の出番も減っていく。
感謝されても、親しくなれるわけじゃない
「ありがとうございました」「本当に助かりました」そう言われることは多い。けれど、それはあくまで役割としての評価であって、人としての親しみではない。たとえるなら、病院の受付がどんなに優しくても、患者と友達になることはないのと似ている。感謝されても、そこに「関係性」が残らない。そうした仕事の特性を理解していても、やっぱり寂しさは残る。
「ありがとう」と「気にかけてる」は違う
「ありがとう」は感謝の言葉であって、関心の証ではない。「気にかけてるよ」「大丈夫?」という言葉には、もっと違う温度がある。そこに心のやりとりが生まれる。でも、司法書士という立場では、その「気にかける」や「気にかけられる」関係が築きにくい。たまに、それがすごく寂しく感じる。誰かの人生に関わっていながら、自分の人生には誰も関わってこないというアンバランス。
職業としての“壁”が孤独を育てる
司法書士という仕事は、どうしても“専門職”としての壁がある。相談者との関係も、同業者との関係も、どこか一定の距離がある。その壁は誤解を防ぎ、プロとしての信頼を守るためには必要かもしれない。でも、その壁の内側で、私はひとりでいる。誰かと心の底から笑う機会も、泣き言を言える場面も、少ない。そんな日々の中で、時々ふと「今日なにしてたの?」と聞かれたくなる。誰かに心を開く隙が、ほしい。
それでも、明日また「忙しい日常」に戻る
夜が静かに更けていく。話し相手のいない夜、あれこれ考えてしまう。でも、明日も仕事はある。クライアントの予定、役所の手続き、期限のある登記…誰かのために働くことが、結局、自分を支えてくれている部分もある。寂しさはなくならないけれど、忙しさがそれを埋めてくれる。そして、また同じような「誰にも聞かれない一日」を重ねていく。それでもどこかで、「今日なにしてたの?」って誰かに聞かれたい気持ちは、消えていない。