朝一番の訪問者
午前8時半。まだコーヒーすら淹れていない時間に、ドアを叩く音が事務所に響いた。ガラス越しに見ると、杖をついた老婦人が不安げな表情で立っていた。私はスーツの上着を掴むと、ため息をひとつついて扉を開けた。
「どうもすみません、朝早くから……」老婦人はそう言いながら、畳んだ書類をそっと差し出した。それは古い不動産登記簿の写しだった。
そのとき、直感的に“これはただの相談では済まない”と感じた。だが、司法書士としては、断るわけにもいかない。
重い扉を叩いた老婦人
老婦人の名は柴田カネ。かつての地主で、数年前に夫を亡くし、現在は一人で暮らしているという。問題の土地は先代からの農地で、ここ最近、近隣住民から「あなたの土地はもう他人のものになっている」と囁かれるようになったらしい。
「まさかと思って調べましたら、名義が…見知らぬ名前に…」震える手で差し出された登記簿には、確かに見覚えのない名が記されていた。登記日付は去年の春。ご主人が亡くなられてから半年も経たない頃だった。
司法書士として、何よりも気になるのは“変更の根拠”。しかも、仮登記から本登記への流れが不自然に早すぎる。
登記簿の相談という名の違和感
私は柴田さんに詳しく話を聞いた。相続登記の相談をした記憶はあるが、名義変更の手続きまでは頼んでいないとのこと。しかも、登記原因が「売買」となっている。売った覚えも、売買契約書もない。
これは、サザエさんでいえば、波平が「家を売った」と知らされてカツオがびっくりするレベルの話である。ありえない。けれど、法務局の記録には、確かに“売却”の記載が残っているのだ。
やれやれ、、、朝からやっかいな仕事が舞い込んできたもんだ。
消えた所有者の名前
登記簿に記された“新しい所有者”の名前は、「北川誠司」。聞き覚えはないが、妙に引っかかる。検索しても大した情報は出てこない。だが私は、土地家屋調査士の名簿を見ていて、ふと手が止まった。
去年、近くの土地の測量で名前を見たことがある気がする。あのときも所有者変更があった。不自然な早さだった。
これはもしかすると、単なるミスではない。意図的な登記操作が行われている可能性がある。
固定資産税通知の謎
柴田さんに尋ねると、固定資産税の通知は今も彼女の元に届いているという。つまり、役所の記録と登記簿が食い違っているのだ。これは珍しいことではないが、同時に重大な兆候でもある。
役所の台帳が更新されていないか、あるいは登記の名義変更が形式的だったか。その違いは大きい。そして、柴田さんには「売却代金の入金」すらないという。
もはや、これは不正登記と断定してもよさそうだ。
登記簿から消えていた名義
過去の登記履歴を閲覧していると、さらに奇妙なことに気づいた。かつての「所有者」である柴田さんの夫の名義が、いくつかの書類から“抹消”されているのだ。
抹消理由が「本人確認不能」。それはおかしい。死亡による相続であれば、戸籍と死亡届があれば確認できるはず。なぜそんな理由で抹消されたのか。
サトウさんが、黙って画面をのぞき込みながらつぶやいた。「その名義、意図的に消されたかもしれませんよ」
不自然な仮登記
仮登記は、本登記の前段階でありながらも法的な効力を持つ。問題の登記も、仮登記が入ってからわずか3日で本登記へ移行していた。
通常であれば数週間かかる処理が、3日で行われた理由。それは関係者が法務局の内部事情を知っていた可能性があるからだ。
私は、以前その土地を担当した法務局職員の顔を思い浮かべた。名前は……確か、山本。
抹消された履歴の空白
法務局に赴き、旧知の山本を訪ねた。「この土地、なんだか妙じゃないか?」と尋ねると、山本は一瞬だけ視線を泳がせた。そして言った。
「あれは……特別対応ってことで、上からの指示で…」その言葉に、私は背筋が寒くなった。特別対応?なぜ?誰が?
そして続けた。「申請書に補正が入ってたけど、処理させられた。詳しくは言えない」
同日同時刻の二重記載
再度登記簿を精査すると、仮登記と別件の登記申請が“同日同時刻”に入っていることが判明した。これは偶然とは考えにくい。
つまり、北川は複数の土地で一斉に仮登記を行っていた。そして、おそらくそれらの登記には、同じ職員が関与していた。
組織的な動きがある。私は、背後にもっと大きな意図があると睨んだ。
法務局職員の沈黙
山本は口を閉ざしたままだった。何を聞いても、「知らない」「言えない」と繰り返す。
「お前、昔は“鬼の山本”って呼ばれてたじゃないか」私は冗談交じりに言ったが、彼は少し笑っただけで何も言わなかった。
その沈黙の奥には、何かがある。私は資料を抱えて事務所に戻った。
旧知の登記官が漏らした一言
別れ際、山本がつぶやいた。「北川は、登記の“穴”を知ってる奴だ。気をつけろよ、シンドウ」
まるで探偵漫画の伏線回収のような一言だった。だが、私にはそれが警告に聞こえた。
登記制度を逆手に取る者がいる。その先に何があるのか。私は、柴田さんのために、真相を突き止める覚悟を固めた。
封印された補正申請の影
補正申請書の写しは存在していたが、なぜか閲覧不可扱いになっていた。これは内部の操作がないとできない処理だ。
つまり、誰かが意図的にこの情報を隠した。司法書士の名で補正申請を行った者の名前——それは、私の業界でも有名な“黒い噂”の多い人物だった。
そしてそこには、北川誠司の署名もあった。
サトウさんの推理
サトウさんは、調査結果をじっと眺めながら言った。「この北川って、過去にも“相続不明土地”を狙ったケースがいくつもあります」
彼女は、手元のデータベースに次々と情報を打ち込み、地図を重ねていった。すると、不自然な所有権移転の線が、まるで蜘蛛の巣のように広がった。
「パターンはほぼ一緒です。仮登記→補正→即本登記。そして名義を別会社に転売」
土地家屋調査士の動きに注目
土地家屋調査士の名前も同一人物だった。これで、法務局・調査士・司法書士が繋がる。北川はその“司令塔”だったのだ。
彼らは合法的な制度の隙間を縫って、まるで怪盗ルパンのように“土地”を盗んでいた。
「あとは、名義変更に必要な実印と印鑑証明ですね」サトウさんの視線が鋭くなった。
数字に込められた暗号
登記書類に記された受付番号の末尾がすべて“913”。何かの符号かと思ったが、彼女は笑って言った。
「これ、北川の誕生日だそうです。9月13日」
まさかと思ったが、それが自信の証か。やれやれ、、、大物すぎて頭が痛い。
登記申請書の筆跡
補正申請の写しに残っていた筆跡と、柴田さんの相談書類の署名を見比べて、私は確信した。筆跡が、まったく一致していない。
柴田さんは筆圧が強く、字も大きい。一方、申請書の筆跡は、小さく、震えた文字だった。これは誰かが偽造したとしか思えない。
つまり、“売買”はでっち上げ。契約もなければ、意思もない。ただ、あるのは不正な移転だけだ。
消された依頼人の真実
署名の横には、なぜか「柴田稔」の名があった。夫の名前だ。死亡していたはずの人物の署名。
これで決まりだった。死人に印鑑を押させたというわけだ。
まるでミステリ漫画のような展開に、私は声に出して笑った。
真犯人との対峙
北川に会ったのは、郊外のプレハブ小屋だった。彼は驚くでもなく、私の名刺を受け取った。
「もう、あの土地はウチの会社のものですから。法的に問題はないですよ?」彼はそう言ってニヤリと笑った。
「でも、死人の印鑑が押されてたら、話は別ですよね?」私が静かに返すと、彼の笑みが消えた。
名義変更の裏にあった動機
彼は金に困っていた。詐欺グループに借金を肩代わりしてもらい、その代わりに“使える土地”を譲り渡す約束をしていたという。
北川は、システムを知りすぎていた。それが彼の強さでもあり、同時に脆さでもあった。
私は告発状を提出し、柴田さんの土地は数ヶ月後に無事回復された。
やれやれ、、、これも仕事のうちか
柴田さんから届いたお礼の手紙は、達筆で温かい文章だった。私は事務所の隅にそれを飾りながら、久しぶりに缶コーヒーを開けた。
「サザエさんなら、ここで波平が『バカモン!』って叫ぶんだろうな」私は独り言ちた。
「やれやれ、、、これでまた一日分、老け込んだ気がするな」