土曜に働くという罪悪感と、誰も褒めてくれない現実
土曜日の朝、周囲の家庭がゆったりと朝食をとっている気配をよそに、私はいつものように事務所の鍵を回す。正直なところ、土曜に働くこと自体はもう慣れてしまっている。しかし、「みんなは休んでいるのに自分だけ…」という気持ちが、じわじわと胸の奥に沈殿していくのを感じるのだ。そして厄介なのは、そうやって頑張っても誰からも感謝されないという現実である。見えない努力、知られない仕事、それが土曜出勤だ。
「みんな休んでるのに」っていう声が頭の中に響く
朝の通勤途中、散歩中の老夫婦や、公園で遊ぶ親子連れを見るたびに、「自分は何やってるんだろうな」と思ってしまう。もちろん誰かに強制されたわけじゃない。けれど、他人の「当たり前の休み」と自分の「働く土曜日」とを比べてしまうのは、もはや職業病だろう。事務所に到着しても、別に急ぎの案件があるわけでもなく、ただ開けておくために鍵を差す。誰のためなのか、自分でもよくわからなくなる。
予定が入らないのは、仕事のせいか、人望のせいか
ふと「土曜に予定がないのは、仕事のせいか、それとも自分に誘われる魅力がないからなのか」と考えることがある。仕事を理由にしているけれど、正直、誰かからの誘いを断った記憶もない。つまり、最初から誘いが来ない。そうなると、土曜に仕事をしている自分を「立派」と思いたくなるが、これは自己防衛に過ぎないのかもしれない。
誰の役にも立ってない気がしてしまう瞬間
静かな事務所で一人、書類整理をしていてふと手が止まる。「これ、誰が見てるんだろうな」と思ってしまう瞬間がある。電話も鳴らず、来客もない。ただ、存在しているだけ。自分の仕事が社会に貢献しているという実感が乏しいと、精神の糸がだんだんと緩んでいくような気がする。
事務所を開けるべきか、閉めるべきかで1時間悩む土曜の朝
土曜の朝、目が覚めてから布団の中でまず考えるのは、「今日は事務所、開けるか?」である。強制力はない。だからこそ迷う。開けたところで、何か成果があるかといえば怪しい。しかし閉めてしまうと、妙な罪悪感と不安に苛まれる。結局、着替えて鍵を手にしている自分がいるが、その一連のプロセスが地味に疲れるのだ。
来客ゼロでも開けるのが「責任」なのか?
「土曜日も開いていて助かります」と言われたことはある。でも、実際に来るかというと、たいてい誰も来ない。来客ゼロでも、ネットには「営業中」と載せている手前、勝手に閉めるわけにもいかない。これを「責任感」と呼んでいいのか、「暇人の言い訳」と呼ぶのか、自分でもわからなくなる。
「開けててよかった」って言われたことは…一度もない
思い返してみると、「助かりました!」と言われた土曜はたしかにあった。けれど、それは年に1、2回あるかないかだ。それなのに、毎週毎週、誰かが来るかもしれないと淡い期待を抱いて事務所を開けている。もはやこれは、希望というより習慣、いや惰性かもしれない。
日曜日、やりたいことはあるけど、体も心も動かない
いざ日曜。せっかくの休みだというのに、朝から体が鉛のように重い。買い物、掃除、散歩、本を読む。どれも頭の中では「やりたい」と思っているのに、体がまったくついてこない。気づけば昼を過ぎ、冷めたコンビニ弁当を食べて、そのままソファでうたた寝する。結局、何もできなかったという後悔だけが夜に残る。
「自由」なはずの日が、全然自由じゃない
他人から見れば「日曜休み」なんて贅沢なことかもしれない。でも、心が休めない日曜は、もはや休みではない。誰とも話さず、誰にも必要とされないまま、ただ一日が過ぎていく。スマホの通知も鳴らず、LINEもゼロ。時間だけが過剰にあって、持て余す。これが「自由」なのかと疑いたくなる。
せっかくの休みなのに自己嫌悪がつきまとう
日曜が終わるころ、「結局、今日も何もできなかったな」と思ってしまう。その思考はまるで呪いのように、週の初めから自分を蝕んでいく。「ちゃんと休めなかった」とか「もっと有意義に使えたはず」といった反省が、疲れた脳をさらに追い詰める。休むって、こんなに難しかったっけ。
朝から布団の中で「今日もダメだったな」と思う
日曜の朝、目覚めた瞬間に「ああ、今日も誰とも会わないな」と思ってしまう。それは決して怠けたいわけじゃない。誰かと会う元気がないだけなのだ。人に会えば、元気なふりをしなきゃいけない。だから布団の中が、一番楽で、一番安心できる場所になってしまう。そしてそのまま昼になり、夕方になり…。