人に見せるための努力じゃない
朝7時半に事務所に入って、気づけば夜の9時。誰に褒められるわけでもなく、SNSに載せるような華やかさもない。それでも淡々と書類に向き合い、登記申請書を何十枚とチェックする。ふとした瞬間、「これ、誰か見てるのかな?」と空しくなる。でも、努力って結局「誰かのため」じゃなくて、「自分が納得できるか」に尽きる。そう思うようになったのは、報われない日々が続いたからだ。人に見せるための努力はすぐ燃え尽きるけど、自分の信念に沿った努力は細くても長く続く。
評価されない毎日とどう向き合うか
司法書士の仕事は、基本的に「ありがとう」と言われることが少ない。ミスがなければ当然、あってはならない。それって結構つらい。ミスは減点、成功はゼロ点。元野球部の感覚でいえば、エラーすれば怒られて、ヒットを打っても「当たり前」扱いされる感じだ。だからこそ、誰かに見てほしいと思ってしまう。でも現実には、誰も拍手なんかしてくれない。そういう時、「誰のためにやってるんだろう」と思い詰めるけど、答えは毎回一緒。「自分が納得できるかどうか」だ。
頑張っても誰にも気づかれない
先日も、相続登記の一件を丸2日かけて処理した。間違いがないか何度も確認して、役所にも出向いて、不備が出ないように慎重に進めた。結局、その案件は何事もなく終わった。でも、依頼者からの反応は特になし。「無事終わりました」という一言だけ。心のどこかで「もう少し感謝されても…」と思ってしまった。でもそれがこの仕事なのだ。気づかれないからこそ、質を維持することに意味がある。そう思わないと、やってられない。
数字にも表れない努力の価値
営業職なら、売上や成績で自分の頑張りを可視化できる。でも司法書士は違う。登記の数が多少増えたって、それは努力の成果とは限らない。たまたま案件が重なっただけかもしれない。逆にどれだけ準備しても、依頼が来なければ数字はゼロ。だからこそ、「数字以外の価値」を自分で認めるしかない。たとえば、事務員がミスしないようにマニュアルを見直す時間。見えないけれど、それも努力のひとつ。数字に出ない頑張りを、自分で認められるようにならなきゃいけない。
努力が報われないと感じた夜
3月末、年度末の山場を越えた日の夜。事務所の電気を消すとき、ふと涙が出そうになった。忙しかったのに、何の達成感もない。誰にも見られてないし、褒められもしない。ただ疲労だけが残っている。そんな夜は、自分の選んだ仕事に意味があるのか、本当に自問してしまう。自分の存在って、社会の中で必要とされてるのか。どれだけ努力しても、誰にも気づかれなければ虚しさしか残らない。でも、それでもやめなかったのは、どこかに「誰かの役に立ってる」と信じたかったからだ。
依頼者の一言に救われたこと
そんな中、あるおばあさんの相続登記が終わったときに、「先生がいてくれて助かりました」と言われた。その一言で、3か月分の疲れがスッと抜けた気がした。目の前で涙を浮かべながら頭を下げられて、「この仕事を続けてよかった」と本気で思った。こんなことは年に一度あるかどうか。でも、だからこそ忘れられない。努力が報われる瞬間は確かにある。頻度は少なくても、強烈に心に残る。それが、次の一歩を踏み出す原動力になる。
感謝されることより忘れられる方が多い
だけど現実は甘くない。9割以上の案件は、終わった瞬間に忘れられる。何も問題が起きなければ、それでいい。それが司法書士の役割。でも、たまに寝る前にふと思う。「あの人、覚えててくれてるだろうか」って。そんなことを考えている自分に嫌気が差すけど、人間だから仕方がない。忘れられる努力。それをどう受け入れるかが、続けられるかどうかの分かれ目かもしれない。
事務所の裏側で積み上がる時間
表に出るのは登記の結果だけ。でもその裏には、地味で根気のいる作業が山ほどある。公図を調べたり、法務局に電話を何本もかけたり、依頼者に聞き取りをして微妙な表現を調整したり。そんな地味な時間の積み重ねが、結果を支えている。だからこそ、誰も見ていなくても妥協できない。目に見える派手さがなくても、プロとしての誇りを持って続けるしかない。見られないところにこそ、その人の本質が表れると思う。
ひとり事務所の静かな戦い
スタッフが一人だけの事務所では、すべての判断が自分にかかっている。相談もできない、言い訳もできない。疲れていても、誰かに任せることができない。そんな中で、毎日「小さな戦い」を続けている。朝、椅子に座ってパソコンを開く瞬間が一番しんどい。でも、誰かが見ていなくても、やらなきゃいけない。誰に評価されなくても、自分が責任を負うと決めた以上、続けるしかない。孤独との戦いに、終わりはない。
誰にも頼れない日常
風邪をひいても仕事は休めない。家族もいないから、頼れる人もいない。元野球部時代の仲間とも疎遠になって、最近はLINEの通知もほとんど来ない。そんな中で、「ああ、自分しかいないんだな」と実感する瞬間が増えてきた。昼に食べるコンビニおにぎりが唯一の楽しみ、なんて日もある。それでも、机の上には案件が山積みになっている。誰にも頼れないからこそ、自分の足で立ち続けるしかない。
元野球部的根性論がまだ役に立つ
根性なんて今どき流行らない。でも、不思議と昔の部活の記憶が支えになっている。ランニング中に足がつりそうになっても、最後まで走ったあの頃。あれと比べれば、登記ミスを防ぐ作業なんて体力的にはマシかもしれない。精神的にはしんどいけど、「ここでやめたら負けだ」と思えるのは、やっぱりあの経験があるからだと思う。無駄じゃなかったと、少しだけ思える。
誰かに届くかもしれないと信じて
この文章だって、誰かに読まれないかもしれない。でも、同じように見えないところで頑張っている人がいると信じて書いている。誰にも見られない努力は、確かに寂しい。でも、その積み重ねが自分の人生を支えている。今日もまた、誰かの目に触れないまま終わる一日かもしれない。でも、それでも続ける。やめない理由は、もはや自分の中にしかない。