誰とも目を合わせられなかった日のこと
今日は一日、誰とも目を合わせられなかった。正確に言えば、「合わせなかった」というより、「合わせる余裕がなかった」が近いかもしれない。朝からなんとなく気分が重くて、駅のホームでも、コンビニでも、事務所でも、視線を上げることにすら力が要った。司法書士として人と接することは避けられないが、それでも「ただの人間」としての自分は、時折こうして人と目を合わせるのが苦痛になる日がある。そんなときは、ただでさえ肩に乗っている重たい業務が、さらにズシリと心にのしかかる。
一人でいるのがラク…でも、たまに寂しくなる
若いころは「群れるのが苦手」と強がっていたけれど、今思えばあれはただの自衛だったのかもしれない。今も基本的には一人が好きだ。気楽だし、気を遣わなくて済む。だけど、夕方になって一人きりの事務所に静寂が満ちてくると、時折寂しさが顔を出す。電話も鳴らず、玄関のチャイムも鳴らない日、ふと「誰かと目を合わせて今日の出来事を語り合いたい」と思うことがある。でも、そんな相手は今のところいない。
「話しかけられない」じゃなく「話しかける気力がない」
以前、取引先の担当者から「先生って、ちょっと話しかけにくいですよね」と言われたことがある。その時は「まあ、そうかもしれませんね」と笑って返したが、内心では少し落ち込んだ。別に無愛想にしているつもりはない。ただ、頭の中が処理しなければならない案件でいっぱいで、笑顔を作るどころか、反応すら遅れることがある。それが「冷たい人」に見えるのだろう。自分でも分かっているのに、修正する気力がわかない。
親しい人がいないと、目も合わない日がある
昔は友人もいたし、飲みに誘ってくれる人もいた。でも、仕事に追われるうちに、ひとり、またひとりと疎遠になった。こちらから連絡をしなければ、関係はあっという間に薄れていく。今では「どうしてる?」とLINEを送る相手すら、思い浮かばない日がある。職場でも事務員さん以外とは最低限のやりとりだけ。そうなると、必然的に「目を合わせる機会」自体が減っていく。物理的にというより、心理的に。
事務所にいても“無人島”みたいな感覚になる
事務員さんがいるとはいえ、彼女にも彼女の世界があるし、毎日深い会話があるわけでもない。お互いに一定の距離を保ち、必要なときにだけ会話する。それはとても理想的な関係ではあるのだけれど、ときに「この場所、無人島か?」と思うほど静まり返る日がある。誰にも話しかけられず、誰にも頼られず、ただひたすら書類を作っている自分。音を立てているのはプリンタとキーボードだけだ。
パソコンと会話してる時間のほうが長い
一日に誰と一番多く「会話」しているかと聞かれたら、おそらくそれはパソコンだろう。登記ソフトに話しかけるように入力し、PDFを開いては「お前、ここで間違えるなよ」とつぶやく。これはもう独り言を通り越して、擬似的な会話だ。人と目を合わせる機会が少ないからこそ、こんな妙な行動に自分自身で気づき、時々ふっと恥ずかしくなる。だけど、もう誰も見ていないから、それすら気にしなくなってしまっている。
相棒はExcelと登記オンラインだけ
毎日向き合っているのは、人の顔ではなく、表計算ソフトと登記システム。Excelには無限の可能性があると本気で思っているし、登記オンラインが止まったときの絶望感は、もはや恋人とのケンカレベル。人との関係は築けなくても、これらのツールとは絶対的な信頼関係がある…と、冗談を言って笑い飛ばせるうちは、まだ大丈夫なのかもしれない。でもふと、「このままでいいのか」と不安が顔を出す。
目を合わせない日も、悪くはない
「今日も誰とも目を合わせなかった」と気づいた瞬間、前はすごく自己嫌悪に陥っていた。でも今は、「まあ、そういう日もある」と思えるようになってきた。無理に人と関わるより、静かにやるべきことをこなす日があってもいい。司法書士という仕事は、派手さもなければ人前に立つことも少ない。そのぶん、こうして“ひっそりと過ごす日”があるのも自然なのかもしれない。
疲れてるときほど、視線はナイフになる
目を合わせるって、実はすごくエネルギーを使う。元気なときはなんでもないことが、疲れていると刺さるように感じるのだ。特に相談者の「不安なまなざし」や、金融機関の担当者の「警戒した目」を受け止めるのがしんどいときがある。だから、そんな日は無理に頑張らず、なるべく目を逸らしてやり過ごす。それは決して逃げではない。自分を守るための防衛反応なのだと思っている。
誰とも目を合わせない日も、自分を責めない
人と関わらないことを“悪”だと捉えがちだけれど、そんなに単純なものじゃない。誰かと関わる余裕がない日もあるし、静かに過ごすことで回復する人間もいる。自分は間違いなく後者だ。誰とも目を合わせず、ただ黙々と業務をこなす日があってもいい。むしろ、そんな日があるからこそ、ふとした笑顔や会話がありがたく感じられるのだ。