夜ごはん食べたって聞かれるだけで今日はもういいやと思えた日

夜ごはん食べたって聞かれるだけで今日はもういいやと思えた日

誰も悪くないのに疲れが取れない夜がある

一日の仕事が終わって帰宅しても、心の中に残る重たさが消えない夜がある。別に大きなトラブルがあったわけでもなく、誰かに怒鳴られたわけでもない。けれど、身体も頭も妙にだるくて、なんだか呼吸が浅い。そういう日が、司法書士という仕事をしていると意外と多い。むしろ慣れてしまったせいか、疲れている自分にすら気づけなくなってるのかもしれない。

無理して明るくするのもやめた

昔は「明るく元気に」が正義だと思ってた。野球部の頃からの習性で、しんどくても笑って乗り切るのが当たり前だった。でも40代になって、笑う元気が残ってない日のほうが増えてきた。誰も気づかないふりをしてくれているのが、逆にありがたくもあり、ちょっと寂しい。職場でもプライベートでも、いつの間にか「大丈夫です」と言い続ける癖だけが染みついてしまった。

やさしい人ほど損してる気がする

自分で言うのもアレだけど、基本的には優しい方だと思う。でも、優しいって便利な言葉で、都合よく使われることも多い。怒らなさそうだから頼みやすい、断らなさそうだから押しつける。そんなふうにして、気づけば自分のキャパはとっくに超えてるのに、誰にも言えない。言ったら面倒くさい人だと思われるのが怖くて、今日も「大丈夫なふり」でやり過ごす。

結局「気にしすぎ」って言われて終わる

たまに勇気を出して「最近ちょっとしんどくて…」なんて話をしても、返ってくるのは「考えすぎじゃない?」「真面目すぎるよ」って言葉。もちろん悪気がないのはわかってる。でも、結局は理解されなかったなという思いだけが残って、もっと話さなきゃよかったって後悔する。だから、黙る。疲れているときほど、言葉にできなくなるのはなぜなんだろう。

「夜ごはん食べた?」のLINEが刺さる理由

そんな中、何気なく届いたLINE。「夜ごはん食べた?」たったそれだけ。でも、その一言が妙に沁みた。仕事のことでもなく、体調のことでもなく、ただ食べたかどうかを聞いてくれる人がいる。それだけで、自分がひとりじゃない気がして、肩の力がふっと抜けた。なんてことない言葉に救われることがある。そんな日がある。

誰かが気にかけてくれてるだけで泣きそうになる

自分でもびっくりしたんだけど、そのLINEを見たとき、ほんとに泣きそうになった。別に恋人でも家族でもない。ただの知り合い。だけど、自分の存在を思い出してくれる人がいるって、それだけでありがたかった。「今日も変わりない」って思われてることが多い中で、「何か食べた?」って聞いてくれることが、思ってた以上に心に響いた。

うれしいのに「うれしい」と言えない自分

正直、照れくさい。そんなLINE、さらっと「うれしい」とか「ありがとう」って返せたらいいんだけど、自分はそんなキャラじゃない。だから、ついスタンプだけ返して終わらせてしまう。後から反省する。「ちゃんと返せばよかったな」って。だけど、そういう不器用さごと、自分なんだと最近はあきらめてる。うれしい気持ちは、ちゃんと届いてたんだけど。

既読したのに返信できなかった夜

どうしても返信できない夜ってある。疲れ果ててスマホを見る気力もない。でもLINEは開いてしまう。読んだらもう返信しなきゃって思うけど、指が動かない。そうやって「既読スルー」してしまった相手のことを、あとで思い出して申し訳なくなる。だけど、ほんとはそのとき精一杯だった。無視したんじゃなくて、応える余裕がなかっただけなんだ。

愚痴をこぼせる相手がいるということ

愚痴を言える相手がいるのは、実はすごく幸せなことなのかもしれない。聞いてくれる人がいて、受け止めてくれる人がいて、自分のしんどさをそのまま出せる場所がある。今の自分にはそういう場所が少ない。だからこそ、心の中のもやもやが溜まっていく。誰かに言いたい。でも誰にも言えない。そんな夜が増えている。

愚痴って許される場所が減っている

最近はSNSでもリアルでも、「前向きであること」が求められる空気がある。愚痴や弱音を吐くと、「ネガティブだね」なんて言われてしまう。だけど、いつも前向きでなんかいられない。自分のことを律しすぎて、壊れてしまう人もいるんじゃないかと思う。だから僕はこの場で愚痴を言いたい。聞いてくれる人が一人でもいるなら、それだけで救われるから。

優しさの押し売りより、そっとそばにいてほしい

「大丈夫?」「何かできることある?」そんな言葉はありがたい。でも、正直に言うと、そういう親切さがしんどく感じるときもある。疲れてるときって、言葉にするのも面倒だし、説明するのも億劫だ。だからこそ、「そっと見守ってくれるだけ」の存在がありがたい。なにも言わずにそばにいてくれる、そんな人が一番の支えになる気がする。

司法書士という仕事が好きかと聞かれたら

よく聞かれる。「この仕事、好きですか?」って。たぶん、答えは「うん、まあね」なんだと思う。でも心の中では「好きだけど、つらい」っていう感情のほうが強い。やりがいはある。だけど報われない日もある。とにかく、感情が揺れる仕事だ。楽しいかと言われたら、楽しいなんて簡単には言えない。

答えに詰まる自分がいる

「どうして司法書士になったんですか?」って聞かれると、毎回ちょっと詰まる。明確な理由があるようで、今となってはよくわからない。ただ、なんとなく向いている気がした。それだけだったのかもしれない。でも、続けてきた。辞めずにやってきた。それだけで、何か意味があるような気もしている。自分なりに、少しずつ答えを見つけていくしかない。

やりがいとストレスはセットだった

やりがいがある仕事ほど、責任も重い。トラブルも多いし、気疲れもする。でも、感謝される瞬間があると、不思議と報われる。依頼人の笑顔とか、「助かりました」の一言。そういう小さな報酬があるからこそ、続けていける。でも正直、やりがいがあるからってストレスに耐えるのが当然、みたいな風潮は、なんか違うと思ってる。

ありがとうの一言で続けてこれた

やっぱり最後は、人の言葉が残る。「ありがとう」「助かりました」その一言が、どれだけ力になるかは、実際に現場にいないとわからないと思う。逆に言えば、それがなかったら、とうに辞めてたかもしれない。自分の存在が誰かの役に立ってると思えること。それが、今日もまた机に向かう理由になる。小さな一言の重みを、何度も噛みしめてきた。

誰のために仕事をしてるんだっけと思う夜

疲れた夜、ふと考える。「誰のためにやってるんだろう?」って。依頼人のため?事務員さんのため?自分のため?正直、答えが出ない。でもたぶん、全部なんだと思う。それぞれの「ため」が少しずつ重なって、今の自分がいる。ときどき迷う。でも、迷いながらでも進むしかない。そういうものだと思ってる。

正解がわからなくても手は止められない

日々の仕事に「これが正解です」なんてものはない。判断に迷うことも多いし、誰にも相談できないこともある。でも、だからといって止まれない。依頼人は待っているし、仕事は積み上がっていく。そうやって、自分のペースではなく「仕事のペース」で毎日が進んでいく。ときどき、自分を見失いそうになる。

孤独に慣れたふりをしていた

一人でやってると、孤独が日常になる。でも、人間は本当の意味で孤独に慣れられないと思う。慣れたふりをしてるだけで、どこかでつながりを求めてる。だから、「夜ごはん食べた?」なんてLINEが届くだけで、涙腺が緩む。誰かに気にかけてもらえること。それが、思ってる以上に大きな支えになってるのかもしれない。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。